約3000年前、日本に米づくりが伝わってから今日に至るまで先人たちは狭い国土でいかに多くの米をつくるかに心血を注いできました。
日本のクニの成り立ちを記した古事記に「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに、みずみずしく稲が豊かに実る国という意味)」とあるように米は古代から日本を象徴する作物です。
このコーナーでは歴史や文化、美しい景観を通じて、地域の多様な米文化を紹介していきます。
「薩埵峠」写真提供:公益財団法人するが企画観光局 駿河湾に突き出した薩埵山の裾にある峠で、東海道本線、国道1号、東名高速道路が重なる。歌川広重の東海道五十三次「由井」にも描かれており、昔は東海道の難所だった。
静岡県は日本のほぼ中央に位置し、その県域(東西155km、南北118km)には遠州灘、駿河湾から伊豆半島沖までの約500kmに及ぶ長い海岸線から、富士山から南アルプス赤石岳の山岳地帯まで、海や山、湖など豊かな自然を有しています。
平均気温は近年まで16℃、年間降水量も2300mmと全国平均(約1600mm)より多く、北部の山岳地帯を除けば温暖な海洋性気候に属します。冬においては乾燥して晴天が多く、平地では雪はあまり見られません。そのため、この地域では稲作をはじめとして、多様な作物が栽培されてきました。
江戸(東京)と上方(京都・大阪)の中間に位置し、東西文化の接点として重要な位置を占めてきたこの地域は、古くは駿河、遠江、伊豆と3つの国に別れて、それぞれの生活文化を育んできました。文化の交流は東西だけでなく、駿河から甲府への身延街道、遠江から信濃への秋葉(信州)街道を通じて南北にも存在しました。
静岡の中央をしめ、かつて駿河国の国府があったため駿河府中、略して駿府と呼ばれ、古くから東西交通の要衝でした。慶長12年(1607)から大御所徳川家康の居城となった駿府城下は、当時江戸と並ぶほどの発展を示しました。
地勢的には北部の山々から海につらなる複雑な地形を利用したお茶やみかんなどの商品作物の栽培や、駿河湾の豊かな海の幸が有名です。
「遠江」の由来は、都から近くにある琵琶湖(近淡海・ちかつあはうみ)の「近江」に対して、遠くの浜名湖(遠淡海・とほつあはうみ)からきています。その浜名湖は淡水と海水が混じる汽水湖で、さまざまな魚介類が獲れ、うなぎやすっぽん、アユなど養殖業もさかんです。またこの地域は、江戸期の綿織物業から発展した高度な産業技術によって、繊維、楽器、輸送機器などの工業が発達し、世界的に有名な企業を数多く送り出しています。
伊豆エリアは、静岡県の東の端にある伊豆半島全域を指し、箱根から連なる山岳地帯がそのまま太平洋に突き出すような形になっています。漁業や林業に依存した生活文化が営まれ、豊富な湯量を持つ温泉地をたくさん抱えています。下田をはじめとする風待ち港が多く、江戸に入る船舶にとって重要な中継地でもありました。
富士山麓地域は典型的な火山灰土地帯で、標高の高いところは広葉樹林が広がり、低いところは畑作地帯として発達しました。豊富な富士の湧水や深良(箱根)用水により江戸期に水田開発も進められました。
北遠地域は行政区域としては浜松市に属しますが、古来より平野部とは違った生活が営まれ、中世以来の風俗が色濃く継承されています。愛知県三河地方と長野県南部を含めたこれらの地域は三信遠と呼ばれ、一つの文化圏を形成しています。
日本初の国産パン
幕末の伊豆韮山代官江川英龍は行政の手腕だけでなく、当時喫緊の課題であった海防のための軍政改革など多方面に才能を発揮した人物として知られます。また、兵士の携行食としてパンに注目し、日本で初めてパン(堅パンに近いもの)を焼いた人物としても有名です。はじめてパンを焼いた日とされる天保13年(1842)4月12日にちなみ、毎月12日は「パンの日」とされています。
約3000年前頃に日本に伝わった水田稲作は、紀元前3世紀頃までにはこの地域で広がったといわれています。昭和18年(1943)、軍需工場建設予定地で見つかった登呂遺跡は、国内で初めての水田遺跡で、居住域も一緒に見つかったため、長らく弥生期の典型的な農村とされてきました。紀元1世紀ごろから300年あまり続く中で、何度も洪水に襲われながら、あるときは水田だけ、あるときは水田と居住域と変遷していることがわかっています。
江戸時代初期は、各地で河川の治水と新田開発が行なわれた時代であり、富士川も雁堤(かりがねづつみ)の築堤によって、左岸(東岸)下流域が新田地帯に開発されました。雁堤の名称は、堤の形状が雁が連なって飛ぶ形に似ていることからきており、その規模は全長2.7kmにもなります。
古郡重高は新田開拓のため堤防工事に着手し、元和7年(1621)一番出し、二番出しといわれる突堤を築きます。その子重政は、引き続きこの地の新田開発のため加島代官に任じられ手腕を発揮しました。さらに重政の死後、その子重年は富士川の水勢を弱めるため、氾濫時に水流を留める広大な遊水池をつくることを着想し、延宝2年(1674)逆L字型の堤防を築造しました。
こうして雁堤は、古郡家三代にわたる50年余の歳月と莫大な費用、そして治水の工夫を結集して完成したのです。以後富士川の流路も安定し、氾濫から守られた加島平野は、「加島五千石の米どころ」ともいわれる豊かな土地に生まれ変わりました。
寛文6年(1666)箱根外輪山にトンネルを掘り、芦ノ湖の水を静岡県側の裾野まで運ぼうという大工事がはじまります。工事は用水の両側から行われ、4年の歳月を経て、深良用水が完成しました。全長1,280メートルの規模と、両方から掘り進めたトンネルの合流地点の誤差が1メートル程しかなかったと言われる測量技術の精度の高さに驚かされます。この用水によってかんばつに苦しむ農民を救ったといわれ、今も富士山麓の東側一帯の田畑を潤しています。
江戸末期頃からより多い収量を目的とした乾田馬耕が各地で導入されていきますが、新しい農法には、基盤としての耕地整備が前提でした。明治20年(1887)の田区改正や明治32年(1899)の耕地整理法に先駆けて実施されたのが、名倉太郎馬による静岡式耕地整備です。明治5年(1872)、自分の水田の曲折した道路、畦畔を改良し、直線状の水田区画にしたのです。直線化することによって耕作や除草作業は効率化され、用水や排水もスムーズに、さらに風通しが良くなることで病害虫被害が減少するなど効果は絶大でした。もちろん収穫量もあがり、これを見た村人の賛同を得、翌6年から彦島村(現袋井市、磐田市)全域44町歩の耕地整理が始まったのです。
静岡県は,北部に南アルプスと富士山に連なる山岳地帯,その裾野を形成する中山間地帯,さらにその下に平野地帯が広がります。長い海岸線沿いの平野地帯には登呂遺跡に代表される古くからの稲作水田地帯が広がり、北部の山岳地帯では里芋や蕎麦、麦の利用等に代表される焼畑農耕文化を残しています。温暖な地に早くから取り入れられた水田農業と厳しい寒冷地での山岳農業、すなわち弥生文化と縄文文化が近年まで共存していた地域ということになります。また、伊豆半島の海岸線や浜名湖周辺では早くから漁業が発達しました。
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水かけ菜(とう菜)(富士山麓地域)
富士山麓一帯の豊富な湧水を使って栽培される。写真提供:JA御殿場
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てんぐさ漁(伊豆地域)
乾燥させたてんぐさは寒天の材料として出荷され、貴重な収入源だった。 写真提供:伊豆市役所産業部観光商工課
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ぼら料理(浜名湖周辺)
水質汚染のひどかった高度成長期に臭い魚のイメージが定着したが、実はとても美味。農文協蔵
天竜川,大井川、安倍川そして富士川といった大きな河川は,上流下流での生活文化を育てることにもなりますが、一方で東西文化交流の大きな障害にもなっていました。食文化も駿河と遠江の間を流れる大井川を境に東と西に進むに従い、その文化的特徴が徐々に分かれていきます。「越すに越されぬ大井川」は東西の文化の分岐点であり結合点だったのです。
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おにぎりとおむすび
おにぎりの形は大井川を挟んで、東には丸型、西には三角型が多くなる。
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雑煮(左:関西風、右:関東風)
一般に関西では丸餅をそのまま、関東では切餅を焼いて入れる。野菜でも関西は京菜、関東は小松菜が多い。
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浜名納豆と金山寺納豆
西日本では静岡以西でよく食べられる糸引納豆ではなく、麹菌で発酵させる納豆が多い。
温暖な気候と豊富な湧水のある伊豆は、まさに椎茸とわさび栽培の適地です。椎茸の人工栽培(原木しいたけ)は、寛保元年(1741)に伊豆で行われたものが国内初とされます。生育に適した期間が年間200日と他産地と比較して長いため、ゆっくりと生育でき肉厚の冬菇(どんこ)といわれる椎茸が出荷されます。
わさび栽培は延享元年(1744)、駿河へ椎茸栽培指導に赴いた板垣勘四郎が技術導入したのが始まりとされます。文化文政年間(1804〜30)江戸ではじまった握り寿司のブームによって需要が急激に伸び、伊豆地域の大きな収入源へと発展しました。
明治以後、椎茸は中華圏への輸出が拡大し、現在でも、伊豆の椎茸はその品質の高さを評価されています。また、わさびの市場取扱量は全国トップとなっています。
慶応3年(1867)の大政奉還により、徳川慶喜は駿府に移ります。その際、警護を勤める「精鋭隊」(のちの「新番組」)も駿府に移り住みました。ところが、明治2年(1869)の版籍奉還により、「新番組」は突如その任務を解かれ職を失います。そこで、中條景昭(ちゅうじょうかげあき)を隊長とした「新番組」の幕臣たちは剣を捨て、牧之原台地における茶畑の開墾を決断します。お茶は安政6年(1859)の開港以来有望な輸出産物であり、また水はけのよい高台で酸性土壌の牧之原台地はお茶にとって生育適地でした。
しかし、台地における水不足は深刻で、育苗・改植用の水はもとより生活に必要な水にも事欠く状態でした。しかも彼らは農業の素人集団であったため、当初は苦労と失敗の連続であったといいます。中條たちは粘り強く開拓を進め、開墾開始から4年後の明治6年(1873)、ようやく初めての茶摘みが行われます。離農していく仲間も増えていく一方、同じく職を失った大井川の川越人夫や周辺の農民も開拓に参入し、明治23年(1890)には茶畑は600町まで拡大します。その後も茶畑の開墾に全精力を注ぎ込んだ中條は、明治29年(1896)、後進に後を託し70歳でこの世を去ります。牧之原台地は歴史の大きな変化の中で県内有数の茶産地となったのです。
当地は温暖な気候なため、4月中旬には新茶が味わえ、牧之原ブランドの「深蒸し茶」製法のお茶は、鮮やかな濃い緑色、芳醇な香り、苦み・渋味の少ないまろやかな味わいが特徴です。
餃子の街 浜松
令和2年(2020)の家計調査で、浜松市の一世帯当たりのギョーザ購入額が2年ぶりに日本一に返り咲きました。浜松市は平成28年(2016)まで3年連続首位でしたが、近年宇都宮市と首位を競い合っています。ちなみに餃子の一世帯当たりの購入額は、浜松市が3766円、宇都宮市が3693円、宮崎市が3670円と上位3位の都市は肉薄しています。
日本の餃子どころの多くは、戦後に満州から引き揚げてきた人たちが餃子を広めたといわれています。浜松餃子はその材料に、地元で盛んな養豚業の豚肉、同じく地元が産地であるキャベツや玉ねぎを使っており、あっさりながらコクのあるのが特徴で、付け合わせにもやしが付きます。
清水港から駿河湾に突き出した三保半島東岸に広がる三保の松原は、万葉の昔から知られた景勝地で、平成25年(2013)に世界文化遺産「富士山‐信仰の対象と芸術の源泉」の構成遺産のひとつとして登録されました。謡曲「羽衣」の舞台となったこの松原には、樹齢650年に達するというクロマツ「羽衣の松」が枝を伸ばしています。
かつて遠州灘の海岸は、天竜川から出る大量の土砂の影響で砂浜が拡大し、そこへ激しい「遠州の空っ風」が南西側から吹きつけ、多量の飛砂に曝されるという大変厳しい環境でした。江戸時代末期以降、斜めに堤と海岸林を設けることで、強風や飛砂を海側に受け流し、環境が安定した後背地を農地として利用してきました。100年以上もの年月を掛けて多層的に造成されてきた海岸林の総延長は、現在残っているものだけで50km以上に及び、海岸林の間には畑が拓かれ、サツマイモ、ニンジン等が栽培されています。
日本で綿作が全国各地に広まったのは江戸時代中期以降、中でも遠州(遠江国)は泉州(和泉国、大阪府南西部)、三河(愛知県東部)と並ぶ良質の綿産地でした。綿農家手織の綿織物が市場に出回っていましたが、弘化元年(1845)浜松藩主が藩士の内職として機織を奨励したことからますます発展し、その特徴的な縦縞はいつしか「遠州縞(えんしゅうじま)」と呼ばれるようになりました。明治19年(1886)にはトヨタ創業者の豊田佐吉の発明した自動織機により生産量は飛躍的に増加します。遠州という地域の持つ高い技術力や職人が育つ土壌は、後の世界的な二輪・四輪自動車や楽器メーカーの誕生に繋がるのです。
神仏の前で稲作過程を演じ、稲の豊作を祈念するのが予祝芸能です。多くは正月に行われ、田植だけで終わるところ、稲刈りまで演じるところと様々あります。
藤守の田遊びは寛和元年(985)に奉納されたと伝えられ、千年以上の伝統を持ちます。荒野を切り拓くことから収穫までの稲作の過程が全て模擬的に演出されていて、豊作を予祝する田遊び本来の古い形がほぼ完全に伝えられています。演じるのは女性に扮した青年たちで、花飾りをつけた傘や色鮮やかなたすきを身につけ踊ります。猿田楽の舞の衣装、頭上の万燈花は桜を模しているといわれます。
仏教寺院で行われる修正会(国家安泰と五穀豊穣を祈願)から発展した「おくない」とその中の火踊りが転訛した「ひよんどり」は、浜松市内各地の寺社で年始に行われます。
「寺野ひよんどり」と「川名のひよんどり」、「懐山のおくない」は、「遠江のひよんどりとおくない」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。
秋葉神社は、火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ)を祭神として古来よりの修験道の霊地で発展し、武家の篤い信仰を得ていきます。
江戸になると各城下町での大火を防ぐ火防の神として信仰を集め、特に頻繁に火災に見舞われた江戸の市民によって信仰されました。現在の東京都千代田区秋葉原の地名は、江戸の防火を願って勧請されたことに由来します。
秋葉神社を経て南北に繋がる秋葉街道は信州街道とも呼ばれ、多くの人や物が行き交いました。
日本を代表する富士山は、山全体が「神」そのものでした。8〜11世紀にかけて大きな噴火を繰り返した富士山に人々は神の怒りと恐れを感じ、信仰を深めていきます。やがて富士の神浅間大神は仏教と習合し、富士権現・富士浅間大菩薩と称されるようになります。江戸時代、富士参拝の講が各地で組織され、江戸の街にはミニチュアの「お富士さん」を築き土地の守り神としました。
大江八幡宮に伝わる御船神事の発祥は江戸時代中期、相良湊の廻船問屋が航海の安全と商売の繁盛を祈願して行ったのが始まりといわれています。神事に使う御船は、江戸時代の輸送船である菱垣廻船と樽廻船を精巧に模したもので、全長は約2mあります。船若と呼ばれる青年達に担がれた御船は、渡御行列の先頭に立って大江地区を練り歩きます。
写真提供:牧之原市教育委員会
重要無形民俗文化財に指定された以下の3つの民俗芸能の舞楽「小國神社の十二段舞楽」、「天宮神社の十二段舞楽」、「山名神社天王祭舞楽」は総称して『遠江森町の舞楽』と呼ばれます。舞楽が地方に伝播し、民俗化して定着したもので、小國神社、天宮神社の舞楽は奈良春日神社系の舞楽が地方化したもの、山名神社のものは舞楽の風流化したものの典型例といわれています。
江戸と全国を結んだ海運
鉄道網が発達する以前、大量の物資を効率よく運ぶ手段は船による輸送が主役でした。江戸時代、全国各地からの年貢米の効率的な輸送ルートの構築の必要性や、当時の経済の中心地大坂から大量消費地江戸への輸送量増加に伴い、全国を結ぶ航行ルートが整備され、江戸期の経済を支える重要なインフラとなります。江戸〜大坂間は、生活必需品の輸送から始まった菱垣廻船や酒荷専用の樽廻船、それを仕切る問屋組織が発展していきます。日本海側では蝦夷地(北海道)と大坂を結ぶ北前船、関東平野でも陸上輸送より利根川や荒川での川舟が活躍しました。
当時、江戸に入る船にとって重要な港が、風待ち港として栄えた伊豆の下田でした。志摩(三重県)の鳥羽港から伊豆半島までは風波を避けるための良港がなく航路の難所とされましたが、順風に恵まれれば一日で渡ることができました。また、寛文10年(1670)に河村瑞賢によって整備された東北航路では、蝦夷地や東北からの物資を積んだ船が太平洋岸を南下してくるようになりました。
銚子から九十九里・野島崎に至る房総半島は風と潮流の条件が悪く、ここから直接江戸湾に入るのは危険だったため、いったん相模湾を横切って下田港に入り、順風を待ってから江戸に出航することもありました。こうして下田港は多くの船が入港し賑わったのです。