日本列島に水田稲作が伝わったのは、いまから約三千年前です。
中国南部から朝鮮半島南部を経由して朝鮮海峡を渡った水田稲作は、
九州北部に最初の根を下ろしました。
水田稲作が伝わる前の日本列島では、
自然の恵みを頼りに暮らしていました。魚や貝を獲り、獣を狩り、
木の実や草の根を集め、食料としていました。
マメ類を栽培することもありましたが、
あくまでも自然の恵みに頼った暮らしをしていたのです。
こうした狩猟採集生活の中で、水田稲作がはじまりました。
森を切り開き、水路を引いて造った水田で稲を育てるのです。
自然の実りに任せるのではなく、
自分たちで食糧を生産ができる水田稲作は、
人々の生活を大きく変えることになりました。
水田稲作を行っていた最古の農村のひとつが、福岡市博多区にある板付遺跡です。ここでは前10世紀に水田稲作がはじまりました。その百年後には周囲に壕と土塁をめぐらせた環壕集落が造られていることから、この頃には農耕を中心に人々が共同生活をする社会が成立していたことがうかがえます。
この九州北部からはじまった水田稲作は、およそ600年の間に本州北端にも伝わりました。水田稲作の広がりとともに、日本列島の各地で米づくりを中心として人々が協力しあう農耕社会が数百年をかけて形成されていったのです。
水田稲作は種籾や農具を持ち、米づくりの技術を知っている人が九州北部に渡ってきたことではじまったといえます。
土を耕し畦をつくり、水を入れて泥状にかきまぜた水田では、さまざまな農具が必要です。写真は20世紀はじめまで使われていた農具です。刃先に鉄の刃が装着されている点を除けば、鍬(くわ)や鋤(すき)の形は弥生時代から現代までさほど変わっていなかったことがわかります。土を耕す農具に大きな変化が見られないということは、耕作技術にも大きな変化がないまま、先人たちは三千年に渡って同じように米をつくり続けていたといえます。
水田稲作とともに伝わった米は、その土地の気候に応じて品種改良が行われました。各地の遺跡からは、9世紀初頭に栽培されていたとみられる稲の品種を示す「種子札木簡」が発掘されています。奈良県の遺跡から見つかった木簡には、様々な品種の種籾を蒔いた日が書かれています。先人たちは豊かな実りを求めて、それぞれの地域で稲の品種改良に力を注いでいたことがわかります。
上)左)奈良県香芝市下田東遺跡から出土した9世紀の木簡です。ヒノキの曲物の底板を品種の記録用に転用しています。「和世(わせ)」は3月6日、「小須流女(こするめ)」は3月11日に 種籾を蒔いたことが記録されています。
下)右)福島県いわき市荒田目条里遺跡から出土した9世紀の種子札木簡です。中に入っている種籾の品種名が記された米俵につけられる木の札です。1には「女和早(めわせ)」、2には「古僧子(こほうしこ)」という品種名が書かれています。
水田稲作が伝わってから、水田を中心に人々は集まり、協力しあい、集落を形成しました。この頃から日本列島の古代社会は、米づくりを中心とした農耕に支えられるようになります。7世紀後半に律令制が導入され、新たな国家の仕組みが整えられるようになると、国家が人々に田を支給する「班田収授法」が定められ、支給された田に応じて「租」と呼ばれる税を納める義務が課せられました。このほかにも春に種籾を貸し付け、秋に5割の利息とともに収穫した米を回収する「出挙(すいこ)」と呼ばれる貸付制度も生まれました。こうして国の財源のひとつに、米が組み込まれることになったのです。
米を税(年貢)とし、全国から年貢米を集める制度は、中世を経て江戸時代まで続きます。中世の荘園領主は、村人とともに田地の等級と面積、年貢の負担者、年貢米の量を決めました。こうした年貢を定める方法は、豊臣秀吉が行った検地に引き継がれました。さらに秀吉は武士が治める領地の年貢米の量(石高)に応じて、軍役の奉仕(戦時に兵力を出すことなど)を義務づける仕組みを作りました。江戸幕府もこの仕組みを引き継ぎ、全国の大名をはじめとする武士を統制しました。このように中世から江戸時代にかけて、米は人びとの税として、また武士を統制する手段として利用され、社会を支えたのです。
戦国時代の天文3年(1534年)に、京都東寺から能登国に出された年貢の収納証明書です。「能米千万斛(石)」という現実ではありえない年貢の量が記されていますが、これは「吉書(きっしょ)」と呼ばれる儀礼的な文書のためです。能登国からの年貢がちゃんと納められていることを文書上で示し、東寺が健全に運営されていることを主張するために作られた「架空の収納証明書」です。東寺の長者(座主)に初めて任命された者が、この返抄を作るしきたりとなっていました。
江戸時代の中期から後期の稲作が、春夏秋冬で描かれた屏風の右隻(春と夏の部分)です。
米は政治や経済だけでなく、文化や信仰にも大きな影響を与えました。米をつくる水田には、季節の行事が生まれました。奥能登の「あえのこと」や「花田植」は、稲作を守る「田の神様」を祀り感謝を捧げる農耕儀礼のひとつです。日本各地で米がつくられ、食べられてきた長い歴史のなかで、各地で稲作や米に関する伝統行事が生まれ、伝承されてきたのです。また私たちの祖先は1年に1回実りをもたらす米に、神秘的な力を感じとっていました。88歳を祝う「米寿」や、寺社に供えられた米をお守りとして譲り受ける風習は全国各地にみられます。これらは米の持つ生命力にあやかり、健やかに過ごせることを祈る文化なのです。
水田があるところには、豊穣への祈りがありました。
それを表すかのように、全国各地には稲の神である
「稲荷神」を祀る神社(お稲荷さん)があります。また七福神のひとつ、
大黒様は五穀豊穣の神ともされています。
生命の糧となる豊かな実りをもたらす神に供物を捧げ、
豊穣を祈り、収穫に感謝する。私たち日本人は、
この稲の成長と米の実りのサイクルに、
祈りと感謝を捧げる歴史を重ねてきたといえるでしょう。
豊穣への祈りは、およそ二千年の歴史を持つといわれる伊勢神宮でも行われています。秋の収穫を感謝する神嘗祭では、その年に実った新しい米を神に供え、神に祈り恵みに感謝を捧げます。また、神々に米をはじめとして様々な食事を供える日毎朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)は、外宮で千五百年前から毎日欠かさず続けられています。米は食べものであると同時に、神と人とを結ぶ特別な供物でもあるのです。
私たち日本人は、食事の前に「いただきます」と手を合わせます。
これは食材に対してだけでなく、これから自分がいただく食べ物に関わったすべての存在への感謝の心を示しています。すべてのものに神が宿ると考える日本では、幼いころから米粒ひとつも粗末にしないことをおそわります。豊穣への深い祈りが示すものは、食糧の豊かさへの憧れです。そしてそこには生きるために米をつくり続けてきた、先人たちのたゆまぬ努力への感謝の気持ちが垣間見えるのです。
米づくりを続けてきた長い歴史の中で、食べ物としてだけでなく、
米は姿かたちを変えて私たちの生活に深く根を下ろしました。
生活の中にある米をみつけてみましょう。
米の食べ方にはいろいろあります。
白いごはん以外にも、寿司や携行食にした
おにぎりがあります。また豆の色をつけて
蒸す赤飯や、米を出汁で煮込む雑炊や
お茶漬けなど、様々な食べ方が生まれました。
米を原料とした加工品はたくさんあります。
大豆を米麹で発酵させてつくる米味噌。
蒸したもち米をつく餅、米の粉からつくる和菓子。
日本酒は米を麹で醸造してつくります。
もち米からつくるお酒がみりんです。
米を収穫したあとの稲を乾燥させ、草鞋を編んだり、
畳の芯に利用しました。藁を編んで、縄や綱にしたり、
米俵を作ったりしました。
豊穣を祈る心は、米を供物として
神に捧げました。お正月や節句の鏡餅、
お神酒。乾燥した稲藁からつくる
神社の注連(しめ)縄。米を与えてくれた
神に、実りを捧げ感謝したのです。