"持ち運ぶ食事"、携行食、弁当。これは日本特有の文化ではなく、世界中で誰もが一度は経験したことがあるのではないでしょうか。しかし日本人にとってそれは単なる携行食という位置づけではなく、ひとつの大成した食文化であり、「(家族の、そして料理人の)心が詰まった宝石箱」と表現されるほど、楽しみあふれる食事でもあります。学校や職場での昼食用弁当を始め、定番の幕の内弁当、電車や飛行機の旅をさらに盛り上げてくれる駅弁や空弁、季節と共に楽しむお花見弁当や紅葉狩り弁当など大切な想い出を彩る重要な要素にもなっていることからも、いかに日本人が弁当文化を愛しているかがわかるでしょう。携帯食は、かつては空腹を満たすためだけのものでしたが、時代の流れとともに変化し、現在では美味しさだけでなく、見た目の美しさ、栄養バランス、利便性、機能性まで兼ね備えるほどに進化しました。そんな弁当に注目しているのは、日本人だけではありません。最近ではニューヨークやパリで日本の弁当がブームになるなど、日本の弁当文化は世界にも広がりを見せているようです。
世界で"Bento"という単語が通じるほどメジャーになった弁当文化ですが、かつて料理を楽しむことは、一部の限られた人のみに許された特権でした。料理書(今でいうレシピ)や盛りつけなどの手法も、将軍家や大名家の料理人のみが授かることができる"秘伝"。私たちが弁当などの料理を楽しめるようになるまでには、さまざまな歴史的転換期を経ているのです。
ここ弁当ライブラリーでは、携行食からひとつの食文化として大成するまでの弁当文化の変遷や、世界に広がる弁当の魅力をご紹介します。
そもそも「弁当」という言葉は、いつ頃誕生したのでしょうか?
江戸時代初期に刊行された日本語とポルトガル語の辞書『日葡辞書』には、「Bento (ベンタウ 便当・弁当)」の記載があります。江戸時代以前に、「弁当」と同じ役割を果たす別の名称が存在したとも言われますが、現在の弁当と同じ意味で記された文献としては『日葡辞書』が最初のようです。
それでは、「弁当」のルーツを探る旅に出ましょう。
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縄文時代
弥生時代
古墳時代
飛鳥時代
奈良時代 -
平安時代
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鎌倉時代
室町時代
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1600年代まで、一日の食事は二度食(朝夕二回の食事)が中心だったため、そもそも昼食に弁当(間食)を食べるという文化はありませんでした。しかし、平安時代の宮中の儀式などを記した『延喜式』(927年)には、厳しい労働を行う場合は、間食として飯を食べたという記録が残っています。
また、弁当の定番である「おにぎり(握飯)」は、今から2000年前の弥生時代の遺跡から、三角形にまとめた炭化米が出土するなど、かなり古くから作られていたと考えられています。
それでは外出先で食事をするという観点から、携行食として記録が残っているものを見ていきましょう。飯では日持ちしないため、飯を乾燥させた「糒」や米を籾のまま焼いた「焼米」が広がりました。 長い旅の場合の携行食としても利用されました。そのままか、水や湯に戻して食しました。
鎌倉時代、立ち働く役人たちは、「屯食」と呼ばれるものを食していました。「屯食」とは米を蒸した強飯のにぎりめしで、この時代は、1日4合以上のご飯を食べたと言われています。
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安土桃山時代
江戸時代 -
江戸時代を迎えた1600年代以降は、多くの資料が現存しており、当時の弁当がどういうものだったか、その姿がはっきりとみえてきます。また、この頃になると今では当たり前の三度食(朝昼晩の食事)が広がり、庶民にも弁当が広がっていきました。
「江戸名所図会」には、江戸時代の農村地帯の絵図が描かれており、その中に農民の田圃での昼飯風景として弁当を食している絵が残っています。現在の神奈川県金沢文庫の辺りを描いたものとされています。絵には、重箱の一つににぎり飯が入っており、もう一つには箸があるので、煮しめや漬け物が盛られていると考えられています。
邦訳日葡辞書 岩波書店
1603〜04年刊行 著書 イエズス会宣教師
イエズス会の宣教師により編纂された日本語の辞書。
ポルトガル語で記述され、約32,000語が収録されています。
そこには既に、「弁当」についての記述がみられ、『Bento(ベンタウ、便当、弁当)』には、「充足、豊富」という意味と、「文具箱に似た一種の箱であって、抽斗がついており、これに食物を入れて携行するもの」という意味が記されています。
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江戸時代
明治時代
大正時代
昭和時代
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1800年代になると、料理書や料理屋の発展により料理内容も多様となり、弁当のおかずなどもバラエティに富んだものに変化します。また、仕事以外にも、花見や船遊び、神社仏閣への参詣など楽しみのために外出することが多くなり、弁当文化が大きく花開く時代となりました。
幕末の大名 武蔵岡部藩藩主 安部信発の1年間の食事記録のなかに弁当の記録もあります。江戸の上屋敷での慶応2年(1866年)の登城する際の弁当例です。内容は、椎茸、干瓢、味噌漬大根、握飯。
当時、日常と特別の日によって弁当の中身は異なるようで、下屋敷や増上寺に出かけるときは特別な日とされ、弁当の内容も多少豪華だったようです。江戸時代の芝居興行は朝6時から夕方5時頃まで続き、芝居見学は一日がかりの娯楽でした。そのため芝居の合間に何を食べるかも楽しみのひとつで、桟敷席に座る裕福な客は芝居茶屋に食事の手配を任せますが、一般の客は「幕の内弁当」と呼ばれる弁当を楽しみました。
錦絵 中村座内外の図 絵師歌川豊国 文化14年(1817年)刊行
味の素食の文化センター所蔵
下は、江戸時代の風俗、事物を記した『守貞謾稿』に記述がある「幕の内弁当」を再現したものです。
内容は、握飯10個、蒟蒻、焼豆腐、干瓢、里芋、蒲鉾、卵焼。
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現 代
(平成時代) -
今から400年前に花開いた弁当文化は、社会環境の変化に伴い、ますます日常的なものに形を変えていきました。学校や職場での昼食用弁当や行楽用弁当、キャラクター弁当と呼ばれる手作り弁当から便利な持ち帰り弁当に至るまで、弁当文化は日本の食文化のひとつとして大きく発展するとともに、その魅力は世界に広がっています。
いかがでしたか?
「弁当」が歩んできた歴史は、わたしたちの生活がより豊かに変化した証。
時に芸術的で、時に機能的な箱の中に、日本人ならではのこだわりと美学が隠されていたのです。世界中の人はそれらをを敏感に感じ取ったからこそ、「弁当」という小さな宇宙に魅了されているのかも知れません。