Plenus 米食文化研究所

米と地域文化

約3000年前、日本に米づくりが伝わってから今日に至るまで先人たちは狭い国土でいかに多くの米をつくるかに心血を注いできました。

日本のクニの成り立ちを記した古事記に「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに、みずみずしく稲が豊かに実る国という意味)」とあるように米は古代から日本を象徴する作物です。

このコーナーでは歴史や文化、美しい景観を通じて、地域の多様な米文化を紹介していきます。

群馬県

「赤城山」上毛かるたに「裾野は長し赤城山」と詠われる赤城山。赤城神社はパワースポットとして有名。

群馬県の気候風土と文化

群馬県は本州のほぼ中央にあたる内陸県で、その形から上毛かるたで「つる(鶴)舞う形の群馬県」と詠まれています。西は北部県境の三国山地から東北部の日光にかけて2000メートル級の山々が軒を連ね、県央部には上毛三山として知られる赤城山、榛名山、妙義山が位置し、そこから東南に向かって関東平野がはじまります。温泉保養地で知られる北西部の草津町と東端に位置する板倉町の標高差は実に1000メートルを越え、地域によって大きな気候の違いが存在します。北西部の冬季は雪が多く年間降水量1700mmを越える一方、南部の平野部では年間降水量は1200mm程度で、冬は北西部の山地を越えて乾いた風が吹きおろす「からっ風」が有名です。

日本一の流域面積を誇り坂東太郎と呼ばれる利根川は、県北の大水上山を水源とし、県央を縦断しながら多くの河川の水を集め流れています。しかし、この地域は古来より水利には恵まれておらず、赤城山や榛名山、長野県境の浅間山など数多くの火山の度重なる噴火によって降り積もった火山灰土の水はけのよい土地は、けして米づくりには向いてはいませんでした。

古くは上毛野国(かみけぬのくに)と呼ばれるこの地は、大和政権を受け入れたクニの中心地として栄え、多くの古墳や遺跡が存在します。古代には官道である駅路などを通じて東山道、東海道、そして北陸道諸国とを結ぶ交通の要衝であり、中世においても都と奥州を結ぶ東道と、鎌倉と信越方面を結ぶ鎌倉道が交差する要衝の地でした。江戸期には中山道を中心にさまざまな街道を通じて人流や商流が活発に行われ、現代においても高速道や新幹線の結束点として重要な地域です。

尾瀬や利根川に流れ込むたくさんの清流や豊かな自然、草津や伊香保、水上、四万などの温泉地としても有名です。米づくりに恵まれた土地柄ではありませんでしたが、おっきりこみに代表される粉食文化、上州和牛や下仁田ネギ、しいたけなどの豊富な農畜産県でもあります。また、自動車産業や伝統工芸品などの産業も発達している地域でもあります。

左:「赤城山」(前橋市、渋川市、昭和村、沼田市、みどり市、桐生市)、中央:「榛名山」(高崎市、東吾妻町、渋川市)、右:「妙義山」※1(安中市、下仁田町、富岡市) 上:「赤城山」(前橋市、渋川市、昭和村、沼田市、みどり市、桐生市)、中央:「榛名山」(高崎市、東吾妻町、渋川市)、下:「妙義山」※1(安中市、下仁田町、富岡市) 上毛三山と呼ばれ、古くからの山岳信仰の対象。大都市江戸から近く手ごろな物見湯山の地として人気を博し、現在でも県民のふるさとの山として親しまれている。
「岩宿Ⅱ遺跡出土石器」写真提供:岩宿博物館戦後すぐに相沢忠洋によって発見された黒曜石の石鑓が発端となって、昭和24年(1949)に相沢と明治大学による調査が進められ、3万年前以上から日本列島で人が生活していたことが学術的に明らかになった。
左:「ハート形土偶」個人蔵、右:「埴輪武装男子立像」 いずれも画像提供:東京国立博物館 Image:TNM Image archives
「土偶」は縄文時代に農業や健康への祈りのためにつくられ、「埴輪」は古墳時代に権力者の祭祀用としてつくられたもの。東吾妻町郷原遺跡から出土したハート形土偶は縄文人の抽象的芸術センスの高さに驚かされる。一方、細部まで表現された埴輪武装男子立像は単体の埴輪として唯一国宝に指定された。群馬県は「埴輪大国」と言われ、国宝や国の重要文化財に指定された埴輪の約4割が県内で出土している。
左:「綿貫観音山古墳 副葬品」、右:「綿貫観音山古墳 埴輪」文化庁蔵、写真提供:群馬県立歴史博物館高崎市南部にある綿貫古墳群。その中の観音山古墳の未盗掘の石室から発見された朝鮮半島との交流を物語る金工品が含まれる国際色豊かな副葬品や墳丘に並べられていた埴輪は、全て国宝に指定された貴重なもので、埋葬された人物の権力や当時の繫栄がわかる。
「上野三碑」(高崎市)写真提供:高崎市山上碑(天武天皇10年/681、亡き母の供養碑)、多胡碑(和銅4年/711、新たな行政区分ができたことを記す)、金井沢碑(神亀3年/726、先祖供養と子孫繁栄を祈願)の3つの石碑の総称。いずれも高崎市南部に所在する。古代(7~11世紀)の石碑は国内に18例しかない。平成29年(2017)ユネスコ「世界の記憶」に登録された。
「草津温泉」※1(草津町)奈良時代、行基によって開かれたと伝えられ、鎌倉時代には源頼朝が巻狩りの際に入浴したとされる。江戸期「諸国温泉効能鑑」には西の大関有馬温泉に対し東の大関「上州草津の湯」とあり、当時は年間1~2万人以上が訪れ、「草津千軒江戸構え」といわれるほど繁盛した。八代将軍吉宗はわざわざ江戸城まで草津の湯を運ばせたという。温泉の自然湧出量日本一。
「尾瀬国立公園」※1(片品村)日光国立公園から平成19年(2007)に独立。特別天然記念物であり、ラムサール条約湿地でもある。福島、栃木、新潟にまたがる美しい自然と貴重な生態系の宝庫。群馬県内の「渡良瀬遊水地」、「芳ケ平湿地群」もラムサール条約湿地。
「少林山達磨寺」(高崎市)写真提供:達磨寺江戸時代前期に建立された禅寺。「縁起だるまの少林山」とも呼ばれ、毎年正月6~7日にはだるま市として知られる七草大祭が開かれる。昭和10年(1935)前後、世界的建築工芸家ブルーノ・タウトが寄寓していた「洗心亭」が現在もそのままの姿で残っている。
「上毛かるた」写真提供:群馬県(許諾第04-01044号)昭和22年(1947)に発行された郷土かるた全44枚。戦後、浦野匡彦によって群馬の子供たちに愛すべき故郷の歴史、文化を伝えたいという想いからつくられた。県内の名所旧跡や輩出した人を札にしている。

群馬県の米づくりの歴史

古代、中世の稲作

群馬県で稲作が始まったのは弥生時代中期(紀元前2世紀頃)といわれています。独自の文化を築きながらも大和政権との関係性を深め、東国支配の拠点として発展していき、奈良平安時代には国家による土地区画制度である条里水田も開発されました。

稲作を中心とする社会勢力の浸透 東日本最大の「太田天神山古墳」(太田市)写真提供:太田市教育委員会墳丘の長さ210mの東日本最大の前方後円墳。中央では大王の棺と称された長持形石棺が用いられていることが特筆され、大和政権と強く結びついた大豪族の存在を物語る。古墳の主は、崇神天皇の皇子「豊城入彦命」を祖とし、大和政権から派遣された伝承を持つ上毛野氏の祖先であろうか。群馬と栃木南西部をあわせた地域は古くは毛野と称され、大和政権の東国経営の中心地として栄えたことを象徴する大古墳である。
「御布呂遺跡の水田跡」(高崎市)写真提供:高崎市教育員会3~4世紀につくられた不整形の水田が浅間山の火山灰で埋没。その上に6世紀初頭、整然とした小区画がつくられたが、それもまた榛名山の噴火で埋もれた。一区画3-5m2で少ない水を効率的に田面にゆきわたらせる工夫がみられる。
「三ツ寺Ⅰ遺跡」左:復元模型 写真提供:かみつけの里博物館、右:西辺張り出し部の様子 写真提供:群馬県 「三ツ寺Ⅰ遺跡」上:復元模型 写真提供:かみつけの里博物館、下:西辺張り出し部の様子 写真提供:群馬県榛名山の南麓で発見された古墳時代の首長の居館。一辺約86mの区画、柵や石垣を備えた濠で囲まれ、周囲の台地には大規模な集落跡や水田遺構も広がっており、居館の主は榛名山麓を中心とする西毛地域を代表する豪族だったと考えられる。
「有馬条里遺跡遠景」(渋川市)写真提供:群馬県6世紀に榛名山の二ツ岳(写真奥)の二度の噴火で火山灰に埋もれながらも復興を繰り返しており、当時の人々の力強さを感じることができる。
「女堀」(伊勢崎市)写真提供:伊勢崎市教育委員会赤城山の南麓に女堀という全長約12km、幅15~20m、深さ3~4mにおよぶ巨大用水の遺構がある。この用水は12世紀中ごろ荘園の開発を目的に開削されたとされている。渡良瀬川が形成した大間々扇状地や火山の裾野の高台は用水不足のところであり、水田開発の進行に伴う荘域を越えた大工事であったが未完成に終わった。

江戸近世の米づくり

海抜500mを超える地域が県域の3分の2を占める群馬県。水利の確保が困難な地勢が故、江戸中期の耕地面積(87500ha)のうち73%は畑作地で、これは隠岐国に続く(84%)に続く高さでした。
江戸期に入ると戦国時代に培われた築城や鉱山技術を治水灌漑に応用した新田開発が行われます。その代表例が利根川の西から南方の台地上の耕地を灌漑した天狗岩用水の開削です。利根川より高い台地に水を引くために上流からの取水を計画し、総社藩藩主秋元長朝は白井藩からの許可を得ます。慶長6年(1601)から3年の工事を経て完成し、総社藩の石高は6千石から1万石となります。その後、水路は幕府代官伊奈忠次によって延伸され玉村地方までを潤すことになります。

「天狗岩用水」(前橋市)写真提供:前橋観光コンベンション協会取水口の巨岩を取り除くにあたり、天狗が来て助けてくれたという伝説から天狗岩用水と呼ぶようになったといわれる。
「力田遺愛碑(光巌寺)」(前橋市)写真提供:前橋市教育委員会後世の農民が秋元長朝の功績を称え、安永5年(1776)に建てられた。
【江戸時代の石高推移】
上野国 全国
慶長3年
(1598)
49万6千石 1851万石
天保5年
(1834)
63万7千石
約14万石、28%増
3056万石
約1200万石、65%増

※江戸期の全国の開発石高と比較しても上野国の水田増加率は低く、水利の確保が難しい地域だったことがわかる。

近代の米づくり

群馬県では戦前から「稲麦二毛作+養蚕」の複合農業形態が一般的でしたが、保水力の弱い火山灰土壌や河川より高い台地上の地形など、近年まで稲作はおろか農地の開墾さえもままならない地域が存在していました。

「赤城西麓での水汲みの様子」出典:関東農政局WEBサイト赤城山の西麓地域は十分な水量を湛えた河川がないにも関わらず、近世になっても水利開発が行われなかったため慢性的な水不足だった。戦後も尚、毎日数キロもの道を水汲みに通い、ようやく生活を送るといった暮らしが続けられていた。昭和35年(1960)から始まった水路の改修は平成10年(1998)まで続けられ、今では2000ha以上の農地を潤している。

一方で、北部中山間地域では豊富な水源と日照時間が多く、気温の昼夜差が大きい気候を活かし、美味しい米づくりを実現しています。中でも沼田地方は新潟県魚沼地方、長野県飯山地方とあわせて良食味三角地帯と呼ばれるほど評価をあげています。

「利根沼田地方の米づくり」写真提供:JA利根沼田昼夜の気温差が大きいと日中盛んに光合成する一方で、夜間の呼吸が抑えられて米粒にでんぷんが十分に蓄積して、収量が増えるとともに美味しいお米となる。

雷と稲作の関係

群馬の気候の特徴として有名な「夏の雷」と「冬のからっ風」。雷は「稲妻」や「稲光」ともいいますが、何故「稲」という字をあてるのでしょうか。これは、雷の放電によって大気中の窒素が酸素と結合し、植物が吸収できる窒素酸化物となることで水田の中に溶け込む窒素量が増え、稲の豊作に繋がることからきているのです。窒素は植物の成長には欠かせない成分で「稲妻ひと光で稲が一寸伸びる」という言葉があることから先人たちは経験的にこのことを理解していたのです。注連縄などの紙垂(しで)も豊作を祈願して雷をモチーフしているという説もあります。

「雷電神社」(板倉町) ©We Love群馬

群馬の食文化

年間を通して晴天の日が多い気候と、水はけのよい土壌が小麦の栽培に適している群馬県は、古くから小麦栽培が盛んで全国有数の産地となっています。そのため、おっきりこみやうどん、焼きまんじゅうなどの昔ながらの料理のほか、パスタや焼きそば、もんじゃなど小麦粉を使ったさまざまなご当地グルメが「粉食文化」として県民の間に広がっています。

「赤城山を望む小麦畑」
写真提供:前橋観光コンベンション協会

[群馬の郷土料理]

「おっきりこみ(おきりこみ・煮ぼうとう)」農文協蔵石臼が庶民に広まった江戸中期以降、広く食べられるようになったといわれる。幅広の麺を旬の野菜やきのこと煮込んだ料理で、塩を入れずに生麺のまま煮込むのでとろみが出るのが特徴。
「焼きまんじゅう」※1麹を使って発酵させた生地でつくった饅頭を蒸して竹串に差し、濃厚な甘味噌だれを塗って焼いたもの。起源は江戸時代末頃といわれ、群馬県民のソウルフード。
「水沢うどん」※1古くは水澤寺の参詣客に振舞われたとされ、400年の歴史がある。こしだけでなくつるつるとした食感も特徴。
「まゆ玉団子」画像提供元:NPO法人群馬の食文化研究会養蚕の盛んな地域では小正月に蚕の順調な成長を祈り、くず米を挽いた団子でまゆ玉をつくって木の枝に刺して飾り付ける。米の団子はお祭りや祝いの場でしか食べることができなかったほど貴重なものだった。
「こんにゃく料理」出典:農林水産省Webサイト※2群馬県はこんにゃくいもの国内生産量9割以上を占める。火山灰土で水はけのよい土地と晴天率も高いことから生産に適している。
「なまずの天ぷら」出典:農林水産省Webサイト※2内陸県の群馬では昔から川魚は貴重なたんぱく源だった。上流からイワナ、ヤマメ、アユやウグイ、コイやフナ、うなぎ等さまざまな魚種が獲れ、漁法や調理法も工夫されてきた。
「高原キャベツ」※1嬬恋村を中心とした吾妻地域は夏季の冷涼な気候を生かしたキャベツ栽培が盛んで日本一の収穫量を誇る。一面に広がるキャベツ畑は圧巻。

明治近代産業を支えた世界遺産

平成26年(2016)、「富岡製糸場」を含めた4つの史跡がユネスコ世界遺産に登録されました。これらは近代における生糸の大量生産の技術革新、世界と日本の技術交流の場、そして世界の絹文化に貢献したことが認められたものです。

「上州富岡製糸場之図」国立国会図書館蔵明治5年(1872)に設立された官営の器械製糸場で殖産興業の象徴。江戸時代末期、外国との貿易を始めた日本の最大の輸出品は生糸だったが、輸出が急増したことで質の悪い生糸が大量に出回る問題がおきた。明治政府は信用回復と外貨獲得のため、生糸の品質改善と生産向上を急ぎ、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場をつくることを決める。フランス人ポール・ブリュナの指導のもと、西洋の技術を取り入れ、全国から集まった工女たちはここで技術を磨いて出身地へ戻り、器械製糸の指導者となっていった。

蚕の健全な成育には、温度、湿度、光、そして新鮮な空気が必要です。この時代に地域の風土や気候条件に応じてより合理的な蚕の飼育方法が確立されました。

「田島弥平旧宅」※1(伊勢崎市)田島弥平は通風を重視し、蚕室を常に新鮮な空気で保ち、自然の環境下で養蚕を行う飼育法「清涼育」を確立し、屋根上に換気用の櫓を設けた近代養蚕農家建築を確立した。
「高山社跡」※1(藤岡市)高山長五郎は、通気を重視する「清涼育」と、寒冷時に蚕室の温度を上げる「温暖育」を折衷し、それぞれの良い点を活かした「清温育」を確立した。また、養蚕教育のための高山社を設立。標準化された飼育法を普及することで、どこの土地でも安定した繭生産が図れるようにした。これらの取組によって「清温育」は全国標準の養蚕法とされ、明治期の養蚕振興に大きく貢献した。
「荒船風穴」(下仁田町)写真提供:下仁田町歴史館
自然の冷風を利用して蚕の卵(蚕種)を貯蔵した天然の冷蔵庫。それまで年一回、春の養蚕が一般的であったが、卵の孵化時期を調節することで年に複数回の養蚕が可能となり繭の増産が図られ、明治・大正期を通じて増大した輸出生糸需要を支えた。風穴は幕末以来長野県で実用化され、全国で300カ所以上にあったという。荒船風穴の蚕種貯蔵量は全国最大規模であった。

群馬県文化豆知識

天明の浅間山大噴火(浅間焼け)

古来より榛名山、そして長野県境にある浅間山は何度も大きな噴火を繰り返してきました。その中でも天明3年(1783)7月8日の浅間山の噴火は、詳細な記録にその被害の甚大さが伝わっています。

「山全体が暴れだしたように揺れ、(中略)黒鬼のように見える第一陣が大地を揺るがし、(中略)第二陣が泥や火石を数百メートルも高く舞い上げ、(中略)真っ暗闇に百万の稲妻が光りとどろき、天地が崩れ落ちるばかり。」(浅間焼出大変記)

「浅間焼吾妻川利根川泥押絵図」
写真提供:群馬県立歴史博物館

火砕流などの土石なだれが吾妻川に流れ込み、泥流となって沿岸の村々や田畑を襲い、利根川に合流した後も前橋、伊勢崎方面まで押し寄せ、死者数はおよそ1500人余にものぼり、その後の飢饉も重なり多くの死者が出ます。
これに対し、幕府や各藩の対応は素早く、7月には被害のあった農家への金銭や米の支給が開始されます。8月には幕府から道路や橋、田畑の復興を図る御救普請が出され、翌正月には九州熊本藩に御手伝普請が命じられます。熊本藩士400人が現地に入り、救援金の配布やインフラ工事により10万両が投じられたといいます。また、各村の名主や年寄による率先した支援活動や無事だった村からの寄付金などもありました。大きな自然災害が多発する日本において昔から助け合いの精神で生きてきた先人たちの姿を見ることができます。

「鎌原観音堂下石段の発掘現場」(嬬恋村)©嬬恋郷土資料館熱泥流によって一瞬で埋没した村の様子が生々しく伝わる。写真は老婆を背負って神社の石段を登ろうとしたときに被害にあった女性とされる。

民衆が主役の地域文化

江戸時代、上野国は幕府領、旗本領、大名領が混在する地域でした。幕府領の代官や旗本たちも江戸に居住することが多く、現地の代官所に詰める役人も多くはありませんでした。また、大名領も最大の前橋藩でも飛び地を含め15万石ほどで、他は数万石の小藩が多く統治力の弱い地域だったといえます。
一方で江戸中期以降、養蚕業、製糸業、織物業、北西部で生産される麻、葉煙草、豊かな山林からもたらされる木材やその加工品、山菜や茸、薪炭、鉱物資源、湯治場として名をはせていた草津温泉の観光業など多くの産業が発展します。米づくりにはけして恵まれていた地域ではありませんでしたが、豊富な余業と現金収入が存在していたのです。そして武家の統治が弱かったため、こういった産業から利益を吸い上げる仕組みもなく、商品経済が地域を潤し、それによってさまざまな文化が育まれました。
民衆の力が強かったことは一揆や村方騒動の多さ(江戸期を通じて他地域の約1.5倍)からも証明されます。また、養蚕や織物業は女性の能力なしには成立しない産業でした。女性主導の家計は女性たちの自立性や対等性を醸成し、上州名物「嬶(かかあ)天下に空っ風」という言葉が生まれたのです。

桐生織

米の代わりに畑作が中心的な地位を占めていた上野国では、江戸中期以降「養蚕業」、「製糸業」、「織物業」が家計を助ける余業として発展。特に桐生では18世紀に西陣の高級絹織物の技術が導入され、大消費地江戸が近いことから「西の西陣」・「東の桐生」と並び称されるほどになる。現在でも群馬県は繭と生糸の生産量日本一で、オリジナル蚕品種や蛍光シルク繭の開発など養蚕業の未来に向けた取り組みも盛んに行っている。

写真提供:桐生織物協同組合
上三原田の歌舞伎舞台※1(渋川市)

文政2年(1819)に建てられ、舞台中央には直径7メートルの回り舞台装置など四つの仕掛けがあり、農村歌舞伎回り舞台としては日本最古のもの。はじめは江戸の役者を呼んで歌舞伎を見る買芝居が主だったが、18世紀中ごろから農民たち自ら役者となり演じる地芝居が始まったとされる。

「奉納された俳額」(冠稲荷神社、太田市)写真提供:冠稲荷神社

商品作物の普及による経済発展や交通の便の良さなどもあり、江戸や上方よりさまざまな文化人が来訪した。寺子屋の普及による識字率の高さもあって、商人、農民まで幅広い階層で俳諧、漢詩、和歌、学問、文芸などの文化活動が活発に行われた。

写真提供:冠稲荷神社
博徒国定忠治(田崎早雲)

現金が庶民の間を行き交うようになると博打を専業とする博徒が横行するようになる。村の若者や無宿者を引き入れ、賭場をひらく縄張りを確保し、地元の町人・村人や旅人を博打に誘って小銭を稼いだ。国定忠治に代表される上州無宿者の博徒の横行は、幕府に関東取締出役という行政をまたがる警察機関を生み出す原因ともなった。

国立国会図書館蔵
大間々まつり(8月1~3日、大間々町)
写真提供:みどり市

上州三大祇園のひとつ。寛永6年(1629)の記録が残る。清めの塩まきを先頭に大榊と神馬を引いて走る姿は壮観。

沼田まつり(8月3~5日、沼田市)
写真提供:沼田市

17世紀初め城主真田信幸が須賀神社を建てたことに始まる。勇壮で豪快なみこしや山車が見もの。

中之条の鳥追い祭り(1月14日、中之条町)
写真提供:中之条町観光協会

害鳥・害虫を追い払い、豊作を祈る予祝行事で慶長9年(1604)に始まったといわれる。

渋川山車まつり(隔年の8月中旬、渋川市)
写真提供:ぐんラボ!制作室

北関東一と呼ばれる見事な山車は威勢のよさから「あばれ山車」とも呼ばれる。

様々な地域への街道の結節点

上州上野国には江戸時代の五街道の1つ「中山道」をはじめ、京都から日光東照宮へ通じる「日光例幣使街道」等の街道が数多くあります。人の往来や物流輸送がさかんに行われ、各街道の宿場は大いに栄えました。
中山道は東海道と並んで江戸と上方を結ぶ重要な幹線道で、上州には67箇所のうち7宿が置かれていました。三国街道は越後・佐渡を結び日本海側と太平洋側を結ぶ最短路で、足尾銅山の開発によって整備された足尾銅山街道は銅(あかがね)街道とも呼ばれ幕府御用銅の江戸への搬出ルートでした。

上州街道略図

脇街道としては、中山道の裏街道の信州街道、下仁田街道、十石街道、会津街道、沼田街道などが整備され、年貢米・農産品・絹・麻・煙草・紙・薪炭・木製品・砥沢村の砥石・硫黄や湯花・小間物や荒物(生活雑貨)などいろいろな商品が江戸へ運ばれました。
当時の大量輸送を支えていたのは水運です。坂東太郎と呼ばれた利根川を利用した河岸と舟運によって上州と江戸の間で活発に物流が行われていました。利根川に合流する吾妻川・烏川・鏑川・広瀬川・渡良瀬川も利用し、約40カ所の河岸があったといわれています。

「倉賀野河岸復元模型」(右:倉賀野宿全景/上:荷揚げの様子)写真提供:群馬県立歴史博物館利根川水運は上州と江戸との物流の大動脈で40箇所の河岸があり、倉賀野河岸は中山道と交わり、利根川支流の烏川沿いに位置した重要拠点だった。
「倉賀野河岸復元模型」(上:荷揚げの様子/下:倉賀野宿全景)写真提供:群馬県立歴史博物館利根川水運は上州と江戸との物流の大動脈で40箇所の河岸があり、倉賀野河岸は中山道と交わり、利根川支流の烏川沿いに位置した重要拠点だった。
「初市(高崎・木屋)」一椿斎芳輝 写真出典:UAG美術研究所
商人の町高崎は、三井越後屋や近江商人らが絹取引のために出店を構え、「お江戸みたけりゃ高崎田町」と謳われるほどの賑わいをみせた。繭・生糸・絹織物生産は農間余業として発展し、養蚕、製糸、織物生産、流通が分業化、中山道を経由して江戸まで三日という好条件が揃っていた。
「碓氷関所跡」(安中市)写真提供:安中市教育委員会「入り鉄砲と出女」を取り締まった関所も慶応3年(1867)ほぼ有名無実化となり、箱根と並び四大関所のひとつとされたこの碓氷関所も明治二年(1869)廃止となった。全国の関所の4分の一が上州にあった。

東京から約100kmに位置し、日本のほぼ真ん中に位置する群馬県。現代においても関越・上信越・北関東・東北と4つの高速道路が通り、昭和57年(1982)には上越新幹線が、そして平成27年(2015)には北陸新幹線が金沢まで開通し、東日本と西日本、そして太平洋側と日本海側を結ぶ重要な結束点となっています。

※1「ググっとぐんま写真館」から転載。https://gunma-dc.net/

※2農林水産省Webサイト
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/32_9_gunma.html

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