約3000年前、日本に米づくりが伝わってから今日に至るまで先人たちは狭い国土でいかに多くの米をつくるかに心血を注いできました。
日本のクニの成り立ちを記した古事記に「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに、みずみずしく稲が豊かに実る国という意味)」とあるように米は古代から日本を象徴する作物です。
このコーナーでは歴史や文化、美しい景観を通じて、地域の多様な米文化を紹介していきます。
「赤城山」上毛かるたに「裾野は長し赤城山」と詠われる赤城山。赤城神社はパワースポットとして有名。
群馬県は本州のほぼ中央にあたる内陸県で、その形から上毛かるたで「つる(鶴)舞う形の群馬県」と詠まれています。西は北部県境の三国山地から東北部の日光にかけて2000メートル級の山々が軒を連ね、県央部には上毛三山として知られる赤城山、榛名山、妙義山が位置し、そこから東南に向かって関東平野がはじまります。温泉保養地で知られる北西部の草津町と東端に位置する板倉町の標高差は実に1000メートルを越え、地域によって大きな気候の違いが存在します。北西部の冬季は雪が多く年間降水量1700mmを越える一方、南部の平野部では年間降水量は1200mm程度で、冬は北西部の山地を越えて乾いた風が吹きおろす「からっ風」が有名です。
日本一の流域面積を誇り坂東太郎と呼ばれる利根川は、県北の大水上山を水源とし、県央を縦断しながら多くの河川の水を集め流れています。しかし、この地域は古来より水利には恵まれておらず、赤城山や榛名山、長野県境の浅間山など数多くの火山の度重なる噴火によって降り積もった火山灰土の水はけのよい土地は、けして米づくりには向いてはいませんでした。
古くは上毛野国(かみけぬのくに)と呼ばれるこの地は、大和政権を受け入れたクニの中心地として栄え、多くの古墳や遺跡が存在します。古代には官道である駅路などを通じて東山道、東海道、そして北陸道諸国とを結ぶ交通の要衝であり、中世においても都と奥州を結ぶ東道と、鎌倉と信越方面を結ぶ鎌倉道が交差する要衝の地でした。江戸期には中山道を中心にさまざまな街道を通じて人流や商流が活発に行われ、現代においても高速道や新幹線の結束点として重要な地域です。
尾瀬や利根川に流れ込むたくさんの清流や豊かな自然、草津や伊香保、水上、四万などの温泉地としても有名です。米づくりに恵まれた土地柄ではありませんでしたが、おっきりこみに代表される粉食文化、上州和牛や下仁田ネギ、しいたけなどの豊富な農畜産県でもあります。また、自動車産業や伝統工芸品などの産業も発達している地域でもあります。
群馬県で稲作が始まったのは弥生時代中期(紀元前2世紀頃)といわれています。独自の文化を築きながらも大和政権との関係性を深め、東国支配の拠点として発展していき、奈良平安時代には国家による土地区画制度である条里水田も開発されました。
海抜500mを超える地域が県域の3分の2を占める群馬県。水利の確保が困難な地勢が故、江戸中期の耕地面積(87500ha)のうち73%は畑作地で、これは隠岐国に続く(84%)に続く高さでした。
江戸期に入ると戦国時代に培われた築城や鉱山技術を治水灌漑に応用した新田開発が行われます。その代表例が利根川の西から南方の台地上の耕地を灌漑した天狗岩用水の開削です。利根川より高い台地に水を引くために上流からの取水を計画し、総社藩藩主秋元長朝は白井藩からの許可を得ます。慶長6年(1601)から3年の工事を経て完成し、総社藩の石高は6千石から1万石となります。その後、水路は幕府代官伊奈忠次によって延伸され玉村地方までを潤すことになります。
【江戸時代の石高推移】
上野国 | 全国 | |
---|---|---|
慶長3年 (1598) |
49万6千石 | 1851万石 |
天保5年 (1834) |
63万7千石 約14万石、28%増 |
3056万石 約1200万石、65%増 |
※江戸期の全国の開発石高と比較しても上野国の水田増加率は低く、水利の確保が難しい地域だったことがわかる。
群馬県では戦前から「稲麦二毛作+養蚕」の複合農業形態が一般的でしたが、保水力の弱い火山灰土壌や河川より高い台地上の地形など、近年まで稲作はおろか農地の開墾さえもままならない地域が存在していました。
一方で、北部中山間地域では豊富な水源と日照時間が多く、気温の昼夜差が大きい気候を活かし、美味しい米づくりを実現しています。中でも沼田地方は新潟県魚沼地方、長野県飯山地方とあわせて良食味三角地帯と呼ばれるほど評価をあげています。
雷と稲作の関係
群馬の気候の特徴として有名な「夏の雷」と「冬のからっ風」。雷は「稲妻」や「稲光」ともいいますが、何故「稲」という字をあてるのでしょうか。これは、雷の放電によって大気中の窒素が酸素と結合し、植物が吸収できる窒素酸化物となることで水田の中に溶け込む窒素量が増え、稲の豊作に繋がることからきているのです。窒素は植物の成長には欠かせない成分で「稲妻ひと光で稲が一寸伸びる」という言葉があることから先人たちは経験的にこのことを理解していたのです。注連縄などの紙垂(しで)も豊作を祈願して雷をモチーフしているという説もあります。
年間を通して晴天の日が多い気候と、水はけのよい土壌が小麦の栽培に適している群馬県は、古くから小麦栽培が盛んで全国有数の産地となっています。そのため、おっきりこみやうどん、焼きまんじゅうなどの昔ながらの料理のほか、パスタや焼きそば、もんじゃなど小麦粉を使ったさまざまなご当地グルメが「粉食文化」として県民の間に広がっています。
明治近代産業を支えた世界遺産
平成26年(2016)、「富岡製糸場」を含めた4つの史跡がユネスコ世界遺産に登録されました。これらは近代における生糸の大量生産の技術革新、世界と日本の技術交流の場、そして世界の絹文化に貢献したことが認められたものです。
蚕の健全な成育には、温度、湿度、光、そして新鮮な空気が必要です。この時代に地域の風土や気候条件に応じてより合理的な蚕の飼育方法が確立されました。
古来より榛名山、そして長野県境にある浅間山は何度も大きな噴火を繰り返してきました。その中でも天明3年(1783)7月8日の浅間山の噴火は、詳細な記録にその被害の甚大さが伝わっています。
「山全体が暴れだしたように揺れ、(中略)黒鬼のように見える第一陣が大地を揺るがし、(中略)第二陣が泥や火石を数百メートルも高く舞い上げ、(中略)真っ暗闇に百万の稲妻が光りとどろき、天地が崩れ落ちるばかり。」(浅間焼出大変記)
火砕流などの土石なだれが吾妻川に流れ込み、泥流となって沿岸の村々や田畑を襲い、利根川に合流した後も前橋、伊勢崎方面まで押し寄せ、死者数はおよそ1500人余にものぼり、その後の飢饉も重なり多くの死者が出ます。
これに対し、幕府や各藩の対応は素早く、7月には被害のあった農家への金銭や米の支給が開始されます。8月には幕府から道路や橋、田畑の復興を図る御救普請が出され、翌正月には九州熊本藩に御手伝普請が命じられます。熊本藩士400人が現地に入り、救援金の配布やインフラ工事により10万両が投じられたといいます。また、各村の名主や年寄による率先した支援活動や無事だった村からの寄付金などもありました。大きな自然災害が多発する日本において昔から助け合いの精神で生きてきた先人たちの姿を見ることができます。
江戸時代、上野国は幕府領、旗本領、大名領が混在する地域でした。幕府領の代官や旗本たちも江戸に居住することが多く、現地の代官所に詰める役人も多くはありませんでした。また、大名領も最大の前橋藩でも飛び地を含め15万石ほどで、他は数万石の小藩が多く統治力の弱い地域だったといえます。
一方で江戸中期以降、養蚕業、製糸業、織物業、北西部で生産される麻、葉煙草、豊かな山林からもたらされる木材やその加工品、山菜や茸、薪炭、鉱物資源、湯治場として名をはせていた草津温泉の観光業など多くの産業が発展します。米づくりにはけして恵まれていた地域ではありませんでしたが、豊富な余業と現金収入が存在していたのです。そして武家の統治が弱かったため、こういった産業から利益を吸い上げる仕組みもなく、商品経済が地域を潤し、それによってさまざまな文化が育まれました。
民衆の力が強かったことは一揆や村方騒動の多さ(江戸期を通じて他地域の約1.5倍)からも証明されます。また、養蚕や織物業は女性の能力なしには成立しない産業でした。女性主導の家計は女性たちの自立性や対等性を醸成し、上州名物「嬶(かかあ)天下に空っ風」という言葉が生まれたのです。
米の代わりに畑作が中心的な地位を占めていた上野国では、江戸中期以降「養蚕業」、「製糸業」、「織物業」が家計を助ける余業として発展。特に桐生では18世紀に西陣の高級絹織物の技術が導入され、大消費地江戸が近いことから「西の西陣」・「東の桐生」と並び称されるほどになる。現在でも群馬県は繭と生糸の生産量日本一で、オリジナル蚕品種や蛍光シルク繭の開発など養蚕業の未来に向けた取り組みも盛んに行っている。
文政2年(1819)に建てられ、舞台中央には直径7メートルの回り舞台装置など四つの仕掛けがあり、農村歌舞伎回り舞台としては日本最古のもの。はじめは江戸の役者を呼んで歌舞伎を見る買芝居が主だったが、18世紀中ごろから農民たち自ら役者となり演じる地芝居が始まったとされる。
商品作物の普及による経済発展や交通の便の良さなどもあり、江戸や上方よりさまざまな文化人が来訪した。寺子屋の普及による識字率の高さもあって、商人、農民まで幅広い階層で俳諧、漢詩、和歌、学問、文芸などの文化活動が活発に行われた。
現金が庶民の間を行き交うようになると博打を専業とする博徒が横行するようになる。村の若者や無宿者を引き入れ、賭場をひらく縄張りを確保し、地元の町人・村人や旅人を博打に誘って小銭を稼いだ。国定忠治に代表される上州無宿者の博徒の横行は、幕府に関東取締出役という行政をまたがる警察機関を生み出す原因ともなった。
上州三大祇園のひとつ。寛永6年(1629)の記録が残る。清めの塩まきを先頭に大榊と神馬を引いて走る姿は壮観。
17世紀初め城主真田信幸が須賀神社を建てたことに始まる。勇壮で豪快なみこしや山車が見もの。
害鳥・害虫を追い払い、豊作を祈る予祝行事で慶長9年(1604)に始まったといわれる。
北関東一と呼ばれる見事な山車は威勢のよさから「あばれ山車」とも呼ばれる。
様々な地域への街道の結節点
上州上野国には江戸時代の五街道の1つ「中山道」をはじめ、京都から日光東照宮へ通じる「日光例幣使街道」等の街道が数多くあります。人の往来や物流輸送がさかんに行われ、各街道の宿場は大いに栄えました。
中山道は東海道と並んで江戸と上方を結ぶ重要な幹線道で、上州には67箇所のうち7宿が置かれていました。三国街道は越後・佐渡を結び日本海側と太平洋側を結ぶ最短路で、足尾銅山の開発によって整備された足尾銅山街道は銅(あかがね)街道とも呼ばれ幕府御用銅の江戸への搬出ルートでした。
脇街道としては、中山道の裏街道の信州街道、下仁田街道、十石街道、会津街道、沼田街道などが整備され、年貢米・農産品・絹・麻・煙草・紙・薪炭・木製品・砥沢村の砥石・硫黄や湯花・小間物や荒物(生活雑貨)などいろいろな商品が江戸へ運ばれました。
当時の大量輸送を支えていたのは水運です。坂東太郎と呼ばれた利根川を利用した河岸と舟運によって上州と江戸の間で活発に物流が行われていました。利根川に合流する吾妻川・烏川・鏑川・広瀬川・渡良瀬川も利用し、約40カ所の河岸があったといわれています。
東京から約100kmに位置し、日本のほぼ真ん中に位置する群馬県。現代においても関越・上信越・北関東・東北と4つの高速道路が通り、昭和57年(1982)には上越新幹線が、そして平成27年(2015)には北陸新幹線が金沢まで開通し、東日本と西日本、そして太平洋側と日本海側を結ぶ重要な結束点となっています。
※1「ググっとぐんま写真館」から転載。https://gunma-dc.net/
※2農林水産省Webサイト
(https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/32_9_gunma.html)