外食施設がない時代、長時間の外出や旅における食事は携帯食が一般的でした。
日本における携帯食は、持ち運びの出来る容器が工夫され、さまざまな調理方法の
おかずや食材の彩りに配慮した盛り付け、季節感も盛り込む工夫を凝らした日本
独自の食文化となり、今や海外ではBENTOという固有名詞になるまでになっています。
ここでは日本の弁当文化をさまざまな時代や場面、登場人物と共に切り取り、
紹介していきます。
戦いは命をかけた苛烈なものです。統帥する大名の考え方が将兵の士気にも大きく影響します。戦国大名の軍事指揮において、兵糧支給は重要な役割をもっていました。戦国時代、戦いは恒常化・大規模化・広域化し、兵糧の安定支給は、領国内の諸階層が戦いに参加する条件であり大名の実カを示すものでした。前線への支給はもちろん、臨戦状態にはない城にも「置兵糧」を貯蔵して非常時に備えました。
毛利元就(明応6年/1497-元亀2年/1571)は、生涯で200回以上の合戦を勝ち抜き一代で中国地方8カ国を制覇し「戦国の雄」と称された戦国大名です。元就は餅を好み兵糧にも餅を推奨しました。地方史『陰徳太平記』に兵士たちは餅袋・米袋・焼飯(炒米)の3つを腰に結びつけて出陣したと記録にあります。
餅は保存性や携行性に優れ、少量でエネルギーに代わり「餅腹三日」といわれるほど腹持ちがよいのが特徴です。餅に含まれる糖質は脳に作用し戦闘本能を冴えさせる働きをします。スタミナの持続が必要な兵士には理想的な兵糧といえます。元就は戦時だけでなく常日頃から餅と酒を用意し、地下人などの身分が低い者達まで声をかけて対面し気軽に酒食を振る舞いました。家来たちは、季節の花や自家製の野菜、魚や鳥などを土産に元就の所を訪れたそうです。
上杉謙信(享禄3年/1530-天正6年/1578年)は、「越後の龍」と称された武将で生涯の約70回もの合戦の中で敗戦は川中島合戦のみでした。部下は、出陣の有無を謙信の食事で知りました。謙信は、日頃は倹約に努め食事は一汁一菜という質素なものでしたが、出陣となると飯を山のように炊かせ、山海の珍味を豊富に並べた豪勢な食事を部下の将兵に振る舞いました。
アワビの黒煮、酢で洗った魚やクラゲの刺身、季節の野菜と干した魚を入れた集め汁、合鴨の胡桃炙り、きすの焼き浸しなど、普段は口にすることもできない御馳走でした。日頃の謙信の倹約ぶりを知る部下たちはおおいに喜び、結束を固くし士気を高くしました。戦いで勝利の勝鬨(かちどき)を挙げることを願っての部下たちへのもてなし料理、謙信の「かちどき飯」と呼ばれています。
戦いでは、戦場にいかに速く的確に兵糧を運ぶかが重要なことでした。それを担当したのが小荷駄隊という補給部隊でした。兵糧、弾薬、設営道具などを運び、陣夫(夫丸)と呼ばれた隊員は農民から徴用され、軍列の最後尾に位置するのが原則の非戦闘員でした。兵糧の調達には陸路や海路などの輸送路の確保も重要でした。戦いの現地で農民や商人から食料を買うこともありました。
羽柴秀吉(天文6年/1537-慶長3年/1598:天正14年/1586より豊臣姓)は智将でした。農民出身ながら織田信長に仕官し、斬新な奇策や政策で頭角を現しました。なかでも人々を驚かせたのは天正10年(1582)信長の訃報を知り備中高松から京都へ約230㎞をわずか10日間で戻った「中国大返し」と天正11年(1583)柴田勝家との戦い時の大垣から長浜までの約52㎞を5時間で駆け抜けた「美濃大返し」でした。
「中国大返し」では途中姫路城で休息し、軍事物資を補給するとともに城に備蓄してあった兵糧と金銭を悉くすべての部下の将兵たちに分け与えました。これは不退転の強い意思を示すとともに、将兵たちを安心させ士気を高めました。「美濃大返し」のときは、移動の数時間前に道中の村々に部下を走らせ、百姓たちに「米を炊いて沿道通過の兵に与えよ。後日、報酬は十倍にして返す」と命じました。そこで各村では総出で握り飯を作り街道沿いに並べ、兵士達はそれを走りながら食べました。こうして秀吉は兵糧を確保し、織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得たのです。
戦国時代後半は、兵の大量動員で敵を圧倒する戦い方が増えてきます。兵士の装備、鉄炮弾薬、兵糧、馬糧、輸送費…一回の合戦の費用は今のお金に換算して約1億円から3億円くらいであったろうと推測されています。特に兵糧代や馬糧代は戦いが長引けば長引くほどかかりました。その軍資金は、どう調達したのでしょうか。 大名の主たる収入は領地からの年貢と段銭(税の一種)でしたが、時期によってはそれらを担保に富裕な商人から借米・借銭をして賄いました。しかし、それだけでは十分ではありません。
毛利元就の場合は領地の石見銀山から産出される銀を軍用金に当てていました。石見銀山の銀は良質かつ産出量も豊富で経済価値が高く、大名たちの領有争いが続きました。永禄5年(1562)周辺大名たちとの銀山争奪戦に勝利した元就は、「銀山からの収入はすべて戦費に充てる」と定め、兵糧の輸送手段のない地域では銀を送り現地で米を調達しました。南蛮貿易を通じて鉄砲や火薬の調達にも銀を充てました。
上杉謙信は青苧(あおそ:植物からとった麻糸で衣類の原料となる)の栽培とその輸出で財を得ていました。越後の青苧は大変品質が良く京の公家らに愛用され「上流階級好みの越後上布」として珍重され、その物流統制を精密に行うことで得た利益を軍資金としていました。他にも山間部に豊富な鉱物資源を産する鉱山をもっていました。
羽柴秀吉は、戦略家であり商才にも長けていました。各地に蔵入地(直轄地)を設け物資の備蓄を行い、商人との関係を深め物資調達をさせます。米の相場を見て安く買い高く売ることもしました。戦時には各地の蔵入地から備蓄物資を運び、商人たちに戦地に全国からかき集めた物資を売る市を立てさせます。そうすると輸送費を省けます。儲けた商人たちからは収益に応じて税を徴収しました。また、自身も多くの利付の信用借りをしました。天正(1582)の備中攻めの後は石見銀山も管理下に置き、運上金を納めさせました。
軍資金が無ければ戦いはできません。そのため大名は自領内の安定的な経済力の増大に意と力を注ぎました。戦いは単に武力に優れているだけでは勝利に結びつかなかったのです。
鎌倉時代末期に発見された石見銀山は、平均年間産出量38トン=10000貫、産出量の多さは世界屈指で海外でも有名でした。銀10000貫は米に換算すれば100万石を下りません。領有争いを制した毛利氏の後は秀吉の管理下になり、その後徳川幕府に接収され江戸時代中期まで日本経済の膨大な銀需要を支えました。
明治時代に民間に払い下げられましたが、昭和18年(1943)の水害で坑道が水没する打撃を受け閉山しました。環境に配慮した生産方式と自然と調和した文化的景観が評価され、平成19年(2007)にユネスコ世界遺産に登録されました。
戦国時代は多くの名将の武勇伝に彩られていますが、実際に戦場で戦った兵士の大部分は雑兵でした。雑兵とは、金銭で雇われた傭兵や徴兵に応じた農民たちです。彼らは戦いだけでなく、陣地の設営や雑用もこなす重要な働き手でした。雑兵の食糧は自弁でしたが、戦いが長引くようなときは「一人一日水一升、米六合、塩十人に一合、味噌十人に二合」が三、四日分ずつまとめて支給されました。夜の合戦のときは、もっと多くの米が支給されました。しかし、戦場の環境や戦時の状況は大変厳しいもので断食が余儀なくされることも珍しくはありませんでした。『雑兵物語』は江戸時代初期に刊行された戦場での心得が書かれた本です。そこには、雑兵たちの生き抜くための知恵と工夫が体験談や見聞としてわかりやすく述べられています。
米と「打飼袋(うちがいぶくろ)」
支給された米の多くは「黒米(玄米)」でした。その日の食用として炊くほか、余分は不測の事態に備え取っておきました。また、炊いたご飯は全部食べ切らず一食分は握り飯にして携行しました。携行食は軽く嵩張らず保存が効くことが条件です。握り飯の他に籾のままや一旦火を入れて糒や煎米にして携行しました。戦時はいつどこで食事にありつけるかわかりません。また、落としてしまったり敵に取られたりしたら大変です。そこで考えられたのが「打飼袋」です。約3mくらいの筒状の布の袋で、この中に握り飯や糒などの食糧や薬品を入れて、一食分づつくくって襷(たすき)がけにして常時肌身につけていました。こうすれば、行軍中でも夜の闇の中でも取り出しやすく、もし一か所が破れても全部はこぼれないという工夫です。
水
水は生きるために不可欠なものです。水は竹筒に入れて携行しましたが、それだけでは足りません。激しい戦闘で多量の汗をかき、喉が渇きました。しかし、敵地の井戸水は決して飲むなと厳しく戒められていました。なぜなら、敵兵が撤退するときに、敵に井戸を使わせないよう毒や汚物を入れていたからです。川水が安全とされましたが、それでも国が変われば水あたりするので、水に杏の実の種から取った杏仁を混ぜたり、田でとれたタニシを干して鍋に入れて上澄みを飲むようにと教えています。その他、雨水を飲んだり、水たまりの泥水を布袋に入れて濾して飲んだりしました。また、水を求めて鳥獣の集まるところや野獣の足跡の多いところから水源を探しました。
塩
戦いは肉体労働ですから塩の摂取は重要でした。塩は今のような顆粒状の白い塩ではなく、焼き固めた薄黒い固型塩を携行しました。粉末の塩は湿気を吸いやすく、湿気を多く含むと潮解(ちょうかい)と言って、べとべとの溶液状になって流れ出してしまうからです。固型塩は、大きな塩釜で一度に三升ほどの塩を焼き固めて作りました。一人で使うなら一個で五十日ほどもち、また戦地では金銭の代わりにもなったといいます。
味噌と「芋茎縄(いもがらなわ)」
味噌は「味噌汁一杯三里の力」といわれ、良質のアミノ酸を豊富に含み、発酵によって生成された各種ビタミン、カルシウムなども多く、じつに栄養豊富でパワフルな食品です。味噌汁はもちろん、そのまま舐めたりつけたりもでき、タンパク源と塩分補給になり、スタミナがつくだけでなく頭の回転も速くなり集中力が増し直感力を研ぎ澄ます効果があるとされます。
味噌は、干すか焼くかして味噌玉にして竹皮か布に包み携行しました。味噌の効能は武将たちもよく知っていました。味噌の確保のために伊達政宗は城下に大規模な味噌蔵を作り生産に励みました。武田信玄は20日前後で熟成する“陣立味噌”を開発しました。大豆を煮てすりつぶし、麹を加えて団子にしたもので、それを腰に下げて進軍している間に発酵して丁度良い味噌になりました。
戦いだけでなく様々な雑用も雑兵の仕事でした。味噌はかさばらないように「芋茎縄」に編んで常時腰に巻いていました。里芋の茎を干して縄状に編んだ後、味噌で煮込んで乾燥させたものです。縄は雑兵にとって何かにつけ役にたつ重要な戦時携行品です。荷があるときは縄として用い、荷がなくなれば必要な長さをちぎって味噌汁にして食べました。干した里芋の茎は水分を吸ってふくらみ、汁の具となりました。
梅干し・胡椒・唐辛子
空腹を満たすためではありませんが、雑兵が常時携行しているものがありました。梅干しと胡椒と唐辛子です。梅干しは打飼袋の底に入れておいて激しい戦闘で息切れがしたときに取り出してながめました。すると唾液が出て喉の渇きが少し癒されるのです。
出陣のときに1個しか支給されないので、舐めたり食べたりはせず見るだけで息切れのときに何度も役立つよう出陣の間中大切にしました。胡椒は夏も冬も毎朝一粒ずつかじりました。そうすると暑気にも寒気にもやられませんでした。冬の凍えるような寒気はたまりません。凍え防止に唐辛子を摺りつぶして、お尻から足のつま先にまで塗りました。うっかり唐辛子が目にでも入ったら、目が血走って痛くて大変です。ですから手には塗らないようにしました。臨時雇いの雑兵には、いくら効用のあるものでもほとんど支給されませんでした。知恵と工夫でのりきりました。
雑兵は簡単な胴具と陣笠を支給されていました。炊事のときにはその陣笠をひっくり返して鍋として使いました。陣笠は、うすい鉄もしくは革で円錐状に作られていましたので煮炊きの鍋に恰好だったのです。
首にかけた打飼袋の結び目を一つ切って、袋ごと鍋に入れました。お腹をこわさないように柔らかい粥に炊きました。また、芋茎縄を必要な分だけ切って陣笠を逆さにした鍋に入れて水を注ぎ加熱して味噌汁にしました。芋茎縄1把で約10人前の味噌汁ができました。食事は兵士たちにとって大きな楽しみでしたが、行軍や戦闘で縄は汗と泥にまみれており長く日の経った味噌と汗による体臭が混ざり合い異臭がしてけしておいしいものではなったようです。
「陣中は紛(まぎれ)もない飢饉で御座有申」とは『雑兵物語』の中の言葉です。飢饉と同じというほど戦場の現実は厳しく、兵糧の心得は切実なものでした。行軍中に見つけた食べることのできる草や木の実はもちろん根や葉も拾って馬にくくりつけて食料として確保しました。大雨や川越えで打飼袋の中の籾が吸水して芽を出したら、育てて根と一緒に煮て食べました。松の皮はじっくり煮て余計なところを捨て粥にして食べました。
戦うためには、単に空腹を満たすだけでなく、十分な栄養補給ができるスタミナ食と生き抜くための緊急非常食や精神を落ち着かせ頭脳にはたらきかける食も必要でした。米や味噌などの日常の兵糧の他に携行したのが「兵糧丸」「飢渇丸」「水渇丸」です。これらは、本来は忍者食です。忍者は敵陣で情報収集活動を行い、必ず生きて帰り報告せねばなりません。強いストレスに負けない冷静かつ機敏な行動が求められました。そこから体調や精神面をサポートする食が工夫されました。「兵糧丸」は甲州流忍法伝書『老談集(ろうだんしゅう)』に、「飢渇丸」と「水渇丸」は忍術書『万川集海(まんせんしゅうかい)』に作り方が記載されています。高価な生薬を多く使って作られているため、貴重なものでした。兵糧というより、薬品といった方が正しいでしょう。
兵糧丸
「兵糧丸」は、そば粉や大豆粉、黒ゴマなどを酒や蜂蜜などで練り、蒸して天日に干す作業を何度も繰り返して丸薬にしたものです。たんぱく源として鰹節や煮干しの粉、脂肪分として松の実、その他クチナシやハジカミ、桂心(ニッキ)なども配合しました。地域や各家独自の工夫で秘伝の薬草を配合したものもあります。兵糧丸は糖分の多い丸薬でしたので即効性があり、一日5~7粒で疲れた脳と体の回復に効きました。嚙み砕いて軍馬に食べさせると馬も元気になりました。携行しやすいように一個は大体20~30gくらいでした。
飢渇丸
「飢渇丸」は敵地で何日も動静をうかがい進退ままならぬときのための持久型機能性携帯食です。疲労回復やストレスの緩和、鎮静、血行促進などの効果がありました。材料は、朝鮮人参、薯蕷(長芋)、甘草、ヨクイニン、そば粉、小麦粉、糯米粉などで、それらを粉にして古酒に浸し乾燥させて作りました。とくに朝鮮人参の割合が多く独特の匂いがしました。澱粉ベースの大きめの丸薬で、持久戦で食物が尽きてしまったときに1日3粒の服用で飢えをしのぐことができました。
水渇丸
「水渇丸」は、口の渇きやのどの痛みを癒やすことに特化した丸薬で咳止めの効果もありました。唾液の分泌を促すよう梅肉をベースに調合されています。砂糖と麦門冬を粉砕し少量の水で煎じ、梅干しの種を除いた果肉と混ぜてよく練って丸めて作りました。
兵糧丸 | 飢渇丸 | 水渇丸 |
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忍者にとって重要なことは、生き抜くための自衛手段でした。戦いに勝つには、どんな厳しい状況下でも生き抜かねばならない、戦国武将の心得も忍者と同じでした。兵糧丸や飢渇丸は高価な生薬が材料です。常時口にするものではなく、必要な時に少しずつ食べる携行食でした。その調合の巧みさと効果は、帝国陸軍省編「日本兵食史」(昭和9年/1934)において「日本人が今まで開発した食べ物中で一番最高の形式といえる」と絶賛されました。
文禄元年(1592)の豊臣秀吉による朝鮮出兵の際に、薩摩藩が兵糧として携行したのが「あくまき(灰汁巻)」です。糯米を孟宗竹の皮で包み灰汁(あく)で炊いた粽(ちまき)のような携行食で、粘りは少ないですが餅のような食感があります。水分が多いので柔らかく冷めても硬くならず腹持ちが良いのが特徴です。灰汁で炊くことでミネラル分など栄養価も高まり、灰汁の強いアルカリ成分が雑菌繁殖を抑制し保存性を高めます。従来の乾燥させた兵糧は水で戻すか、煮炊きせねば食べられませんでした。「あくまき」は、そのままでおいしく食べられる、という点で画期的なものでした。他藩の兵糧が尽きるなか薩摩の軍勢だけが「あくまき」で腹を満たし士気が高かったといわれています。
戦国時代、兵糧は勝敗の鍵を握る重要なものでした。戦時下の厳しい状況の中で、携行しやすく力になるようにと、さまざまな工夫が凝らされました。兵糧には武将や兵士たちの生き抜くための知恵が詰まっています。まさに戦いを支えた携行食でした。彼らの知恵は、戦いのない現代でも防災用の保存食や災害時の非常食として生きています。また、「あくまき」は鹿児島では家庭で作る手軽な郷土菓子として今も親しまれています。
1950年生まれ。日本航空(株)国際線客室乗務員・文化事業部講師を経て、ヒューマン・エデュケーション・サービス代表。1997年より(財)日本交通公社嘱託講師として観光諸分野のおもてなし向上、ホスピタリティ醸成の指導に携わるとともに、国土交通省・観光庁・自治体の観光振興アドバイザーや委員を務める。2009年より大学兼任講師(高崎経済大学、他)。研究テーマ:「ホスピタリティ」「日本のもてなしと食文化」、著書:『日本のお弁当文化』(法政大学出版局)『新現代観光総論』(共著・学文社)
【参考文献】
- 『日本のお弁当文化: 知恵と美意識の小宇宙』権代美重子(法政大学出版局/2020)
- 『戦国大名毛利氏と兵糧』菊池浩幸(一橋論叢/2000)
- 『雑兵物語 他』吉田豊訳(教育社/1980)
- 『たべもの戦国史』永山久夫(河出文庫/1996)
- 『科学から読み解く忍者食』久松眞(農畜産業振興機構/2017)