外食施設がない時代、長時間の外出や旅における食事は携帯食が一般的でした。
日本における携帯食は、持ち運びの出来る容器が工夫され、さまざまな調理方法の
おかずや食材の彩りに配慮した盛り付け、季節感も盛り込む工夫を凝らした日本
独自の食文化となり、今や海外ではBENTOという固有名詞になるまでになっています。
ここでは日本の弁当文化をさまざまな時代や場面、登場人物と共に切り取り、
紹介していきます。
花見の起源は奈良時代の貴族の行事からと言われますが、その頃鑑賞されていたのは梅でした。『日本後記』に嵯峨天皇※が宮中の庭で「花宴之節」(弘仁3年/812)を催した記録があり、それが桜の花見の最初とされています。この後は毎年のように花宴が催されるようになり、観桜の宴は天長8年(831)から宮中の定例行事となりました。桜をこよなく愛した嵯峨天皇の影響で貴族の間でも花見が広がり、桜の木の下で貴族たちは漢詩を作ったり、楽を奏したり、舞を舞ったりして楽しみました。
※在位:大同4年(809)〜弘仁14年(823)
やがて花見の風習は武家社会にも広がっていきます。豊臣秀吉もまた桜をこよなく愛した一人でした。秀吉の「吉野の花見(文禄3年/1594)」と「醍醐の花見(慶長3年/1598)」は、大勢の伴を連れ、酒席や茶席を設け、仮装や無礼講を楽しむ盛大豪華なものでした。秀吉の花見は、管弦や舞を楽しむという優雅な花見から人々が集い、にぎやかに楽しむ花見へと変わるきっかけとなりました。
秀吉の醍醐の花見は、北政所、淀殿、秀頼をはじめ徳川家康らの諸大名と奥方など約1300人の伴を連れた盛大なものでした。酒席や茶屋が設けられ、仮装をして楽しみました。女性たちは二度も衣装を変え華やかさを盛り上げました。天下統一を成し遂げ、世継ぎも生まれた、その安堵感が花見にも表れています。秀吉は、この半年後に他界します。
貴族や武士だけでなく、庶民も盛んに花見を楽しむようになったのは、江戸時代の寛文年間(1661〜73)の頃からです。一般に「花見」というと寺社の境内に咲く一本桜の鑑賞でした。享保年間(1716〜36)に八代将軍吉宗が、飛鳥山や隅田川堤、小金井堤などに数千本の桜を植えて庶民の花見を奨励したことから、一斉に咲く盛大な桜を鑑賞できるようになり、花見は庶民の年中行事ともいえる楽しみとなりました。人々は桜が咲き始めると連れだって花見に繰り出し、樹下に宴を設けて楽しみました。
江戸時代の花見はどんなものだったのでしょうか。花見の風景を描いた浮世絵が多く残されており、その様子をうかがうことができます。
落語に「長屋の花見」という演目があります。ある日貧乏長屋の大家が「みんなで花見にいって陽気に騒いで、貧乏神を追い出そう」と店子たちを上野の花見に誘います。お酒や御馳走を詰めた重箱も用意したというので、一同は大喜びで出かけます。ところが、酒は煮出した番茶を水で割ったもの、玉子焼きは黄色いたくあん、蒲鉾はおこげ(釜底=かまぞこ、落語家によっては「大根のコウコ(半月方に切った大根か、白い大根の漬物)」)と全部代用品です。
期待していた店子たちはがっかりしましたが、裏長屋に住む貧しい庶民たちにも「花見」はみんなで楽しむ行事であり、「酒」や「玉子焼き・蒲鉾入りのお弁当」を持っていくもの、という意識が浸透していたことがわかります。
花見の宴の中心にはお弁当がありました。「花見弁当」はみんなで楽しむものであり、「見られる」・「見せる」ことを意識して作られるようになります。
江戸時代後期の料理本「料理早指南」に「花見弁当」の献立が載っています。「上の部」・「中の部」・「下の部」と豪華なものから手軽なものまで三種類が載っており、春の旬の食材を生かした御馳走が詰め合わされています。「上の部」には、「かすてらたまご」・「わたかまぼこ」・「蒸しかれい」・「桜鯛」・「ひらめの刺身」、そして「かるかん」や「きんとん」など甘味も入っています。割籠(わりご)という別の弁当箱には焼きおにぎりなどが詰めあわされています。
『料理早指南』に紹介されている「花見弁当」の上の部を参考に、お弁当を再現してみました。
花見の御馳走を詰めたお弁当箱はどんなものだったのでしょうか。弁当文化の花開いた江戸時代には、機能性だけでなく、意匠やデザインにも工夫を凝らしたさまざまなお弁当箱が作られました。
庶民の間で花見が盛んになる前から、公家や大名たちは観桜や観楓といった野遊びを楽しんでいました。そのとき持参したのが「野弁当箱」です。酒器や重箱、飯碗・汁椀などの食器だけでなく、多くは茶を点てる道具まで収納されていましたので「茶弁当」とも呼ばれます。箱側面につけた金具に棒を通し肩にかついで持ち運べるようになっていました。
花見に持っていくお弁当箱は、主に「重箱」でした。「重箱」は室町時代に登場し、江戸時代中期から庶民の間にも普及しました。重ねて場所をとらず、広げるとたくさんの品数の料理を一度に提供できる重宝な容器です。四段重が正式ですが、江戸時代には十重のものや四角や丸型、五角形などいろいろな形の重箱がありました。蒔絵を施した豪華なものから、庶民が用いた簡素なものまで、さまざまな重箱が作られました。
携行に便利なように提げ手をつけた「提重」もよく利用されました。中には重箱、徳利、盃、取り皿、箸などが組み入れられています。携帯用としての機能だけでなく、宴を楽しむ特別な容器として季節や行楽に応じた趣向を凝らしたものが作られ、観劇、花見、紅葉狩り、月見や夕涼みなど、四季折々の物見遊山の際にも活躍しました。
「割籠」はヒノキなどの白木を薄く剥いだ板で作られた中に仕切りがある弁当箱です。仕切りがあると、味が他に移るのを防ぎ、外での食事や他家に食物を分けるときに便利でした。ヒノキには抗菌成分が含まれており、食材の腐敗を遅らせて鮮度を保つ働きがあります。通気性や保湿性にも優れ、時間がたっても中の食材が固くなりにくいのも特徴です。
割籠と同じように白木を用いた弁当箱に「折箱」があります。「折箱」は、仏具・神具や食膳として使われた折敷(おしき)に由来し、使い捨ての容器です。こうした使い捨ての容器は日本独自のものです。
昔から親しまれてきた花見の名所が、
多くの浮世絵に描かれています。
花見の名所は人々の思いが
育ててきました。
その桜に寄せる思いも紹介しながら
花見の名所をご紹介します。
江戸第一の桜の名所は「一山花にあらずと云うところなし」と言われた上野の東叡山寛永寺でした。創建者の天海大僧正は「見立て」の思想※をもって吉野から桜を移植し、寛永寺を庶民が憩える場所にしたいと考えました。上野が桜の名所になったのには、そんな由来があります。
寛永寺の境内は庶民に開放されていましたが、徳川家の菩提寺ということもあって音曲や飲酒、夜桜見物は禁止されていました。時を経て明治6年(1873)に日本で初めての公園となりました。戦争や震災で荒廃した時期もありましたが、今の上野の桜の景観は第二次大戦後の困窮時代に地域の人々が資金を出し合って1250本の桜、八重桜300本などを植樹したことによります。
※徳川三代(家康・秀忠・家光)の帰依を受け政治参謀でもあった天海(天文5年/1536〜寛永20年/1643)は「四神相応」の考えのもとに平安京を見立てとして江戸のまちづくりを計画しました。江戸の鎮護と繁栄を考えてまちづくりを進める中で、天海は庶民の憩の場の重要さも認識していました。上野東叡山の桜は、そうした意図で植えられたものです。
飛鳥山は景勝地でしたが、将軍家の鷹狩地でもあり、庶民には立ち入りできないところでした。吉宗は、ここに江戸城内の桜1270本を移植し、庶民に開放しました。花盛り頃には家来に酒肴をたくさん持たせて花見に行かせ、庶民にもふるまいました。こうした積極的な奨励策がきいて飛鳥山は花見の名所として賑わうようになりました。今、飛鳥山には650本の桜が植えられており、遅咲きの八重桜が人気です。
「花見の場所数ある中に墨堤の花見に上超す賑わいなし」と言われたのが、隅田川堤です。飛鳥山と並ぶ花見の名所隅田川堤の桜も吉宗が植樹したものです。吉宗の花見の奨励とともに隅田川堤は市中から舟の交通の便が良く、浅草や吉原などの歓楽地が近いことから花見の名所として人気がありました。今は屋形船や水上バスで花見を楽しむことができます。
花見時のお土産として人気があったのが「桜餅」です。江戸時代中期に隅田川沿いの長命寺の門番が、桜の落葉を塩漬けにして餡入りの餅に巻いて門前で売り出したのが評判となりました。
『兎園小説』(※曲亭馬琴他編・文政7年/1824)に、一年に77万枚の桜の葉を漬けて38万7500個の桜餅を売ったとあり、人気のほどがわかります。由来から江戸では「長命寺餅」と呼ばれますが、上方では藤井寺にある道明寺由来のもち米を粗くひいた道明寺粉を使用した桜餅が作られており「道明寺餅」と呼ばれています。
※曲亭馬琴の呼びかけで集まった文人たちが、月に一度珍談奇談を披露しあいました。その会「兎園会」で出た話を編集したものです。
江戸以外の花見名所もご紹介しましょう。
嵐山の桜は、後嵯峨天皇※が吉野の桜を移植したことから始まり、歴代の天皇が花見を楽しみました、明治時代には岩倉具視が保全会を組織し桜の植樹に尽力しました。
大正時代に日本に留学していた後の中華人民共和国の首相周恩来が嵐山の桜に感動した逸話も有名です。嵐山山麓に約1500本の桜が植えられています。今は渡月橋の上からや屋形船での花見が人気です。
※在位:仁治3年(1242)〜寛元4年(1246)
円山公園の「祇園枝垂桜」は
「祇園の夜桜」とも言われます。
「清水へ 祇園をよぎる桜月夜 こよひ逢ふ人みなうつくしき」と与謝野晶子※も詠んだように、円山公園は夜桜で有名です。「祇園の夜桜」として知られるシダレザクラは樹齢約90年、220年の樹命を全うした一代目の後を継ぐ二代目です。夜の篝火に浮かび上がる桜の美しさは幻想的です。ライトアップは午前1時まで。園内には、そのほか約800本の桜が植えられています。京都随一の桜の名所として親しまれ、開花時期はまるで公園全体が桜の中にあるようです。
※生没年:明治11年(1878)〜昭和17年(1942)
吉野は古来桜の名所として人々の心をとらえ多くの歌に詠まれてきました。「一目千本」と言われ、200種類約三万本の桜の景観が圧巻です。この景観は山岳信仰から生まれました。桜は御神木として保護され、参詣者は桜の苗木を寄進する習わしでした。吉野の桜をこよなく愛した西行※は「吉野山 こずえの花を見し日より 心は身にもそはずなりにき」ほか、多くの歌を詠み、吉野に庵を結びました。平成16年(2004)7月、吉野山を含む「紀伊山地の霊場と参詣道」は、ユネスコの世界遺産に認定されました。
※生没年:元永元年(1118)〜文治6年(1190)
弘前城外濠の花筏
写真提供:弘前公園総合情報サイト
東北の桜の名所と言えば、青森県弘前市にある弘前城(弘前公園)ですが、その歴史は意外と新しいものです。江戸時代、城内の庭園の樹木は松が中心で桜はわずか25本でしたが、明治維新の廃藩置県で荒廃した城址に旧藩士が1000本の桜を植え、続いて大正天皇成婚記念に1000本、昭和期に1300本と篤志家の桜の寄贈植樹が続き、桜の名所となっていきました。北方に位置するため開花は四月下旬からでゴールデンウィークが見頃です。城の外濠をピンクに埋め尽くす花筏の景観が見事です。
静岡県伊豆半島の河津桜は2月上旬から咲き始める早咲き桜として有名です。昭和30年(1955)に原木が発見され、11年たって濃いピンク色の花が初めて咲きました。学術調査によって昭和49年(1974)に新種と判定されました。町の花として官民一体となって植樹を続け、今では約8000本の桜が美しい景観をつくっています。花期が長く、約1か月間楽しめます。
古来日本では、「野遊び」、「野がけ」と言って春や秋の穏やかな日に野山で遊んだり食事をしたりすることが行われていました。単なる野外での飲食ではなく、季節の風景のなかで、人々は自然と一体となって飲食を楽しんできました。野外で開くお弁当は、自然や季節と人々を結び、ともに集う家族や仲間たちとの絆を深めてくれました。
四国の徳島に春の節句を祝う可愛い風習があります。旧暦のお雛祭りの頃、毎年4月3日になると子供たちが小さな重箱に御馳走を詰めて野山や海に遊びに行きました。街中、海辺、里山と住んでいる地域によって、花見、磯遊び、山遊び、と異なりましたが、子供たちにとっては年に一度の自分たちだけで自由に楽しむ特別な行事でした。
子供たちは一人一人自分専用の小さな重箱「遊山箱(ゆさんばこ)」を持っていました。家族が遊山箱いっぱいに巻きずしや卵焼きなどの御馳走やお菓子を詰めて持たせてくれました。食べてなくなると、近所の人がおかわりを詰めてくれました。江戸時代から続くこの風習は子供たちにとって忘れられない楽しい思い出であるとともに、子供の成長を見守り支援する大人たちのあたたかい眼差しが感じられます。昭和半ばからすたれていたこの風習を近年復活させようとしています。
徳島に伝わる遊山箱は、小さな手提げ重箱です。三段のお重が入った箱には、様々な絵柄が施されています。下の段には巻き寿司、真ん中には煮しめ、上にはういろうや寒天を入れるのが一般的でした。
1950年生まれ。日本航空(株)国際線客室乗務員・文化事業部講師を経て、ヒューマン・エデュケーション・サービス代表。1997年より(財)日本交通公社嘱託講師として観光諸分野のおもてなし向上、ホスピタリティ醸成の指導に携わるとともに、国土交通省・観光庁・自治体の観光振興アドバイザーや委員を務める。2009年より大学兼任講師(高崎経済大学、他)。研究テーマ:「ホスピタリティ」「日本のもてなしと食文化」、著書:『日本のお弁当文化』(法政大学出版局)『新現代観光総論』(共著・学文社)
【参考文献】
- 『日本のお弁当文化: 知恵と美意識の小宇宙』権代美重子(法政大学出版局/2020)
- 『大食軒酩酊の食文化』石毛直道(教育評論社/2020)
- 『美味しい櫻』平出眞(旭屋出版/2016)
- 『花見と桜 「日本的なるもの」再考』白幡洋三郎(八坂書房/2015)
- 『遊山箱―節句の弁当箱』三宅正弘(徳島新聞社/2006)