Plenus 米食文化研究所

Yoshoku Roots Story 洋食ルーツストーリー

洋食の大衆化 ~外食から家庭の味へ~

洋食が注目された大正時代

西洋文化の積極的な受容がみられた明治以降においても、家庭の食事は大きく変わることなく、ご飯と汁に野菜や魚類のおかずを組み合わせる献立が一般的でした。
しかし時を経るにつれ、西洋料理は徐々に和洋折衷を重んじながら、日本人の嗜好にあった料理へと変化していきます。やがて日本風にアレンジされた西洋料理は、洋食という名の下で市民権を得、家庭の食卓のおかずにも登場するようになるのです。
大正時代に入ると、料理書や婦人雑誌においても、家庭料理としての洋食の記述はますます増加し、ご飯にあう味にアレンジされたレシピが紙面をにぎわせました。カツレツ、ライスカレー、コロッケの三大洋食が、話題を集め始めたのもこの頃です。

洋食を楽しむ昭和時代

昭和時代に差しかかると、都市部の生活を中心に、一層の西洋化が進みました。デパートメントストアでは、洋酒をはじめとする欧米からの輸入食材を数多く取り扱うようになり、洋食を提供する食堂も開設され始めます。モダンな食文化を提供するデパートメントストアは、家族連れで訪れる場所としても人気を集め、洋食普及に大きく貢献していくことになりました。

賑わうデパートメントストア
『現代商業写真帖』昭和11年(1936)
国立国会図書館蔵
食堂の入り口に設置されたガラスケースにメニューのサンプルを陳列するスタイルは、日本独自の風景です。当時は、入口で食券を販売していたとも言います。左図の写真の説明には、「震災後東京人は高速度に食い意地が張ってきた、かどうか知らぬが、食堂の激増が素晴らしく、特にデパートメントの食堂は断然東京市民の食欲を満たしている(原文ママ)」といった解説がみえます。関東大震災後に、洋食の普及が一層顕著となる様子がうかがえます。 
『東京写真帖』 昭和7年(1932)
国立国会図書館蔵
昭和50年(1975)頃の冷凍食品売り場 
写真提供:ニチレイフーズ

戦後の高度経済成長期には、電気炊飯器や電気冷蔵庫などの台所家電の普及とともに、インスタント食品、レトルト食品、冷凍食品などの調理加工食品が発売され、家庭の食生活に大きな変化が起こります。レトルトカレーをはじめ、冷凍コロッケや冷凍ハンバーグなど、手軽に温めるだけで食べることができる洋食メニューがどんどん日常の食卓に並ぶようなります。

写真提供:ニチレイフーズ

その後も東京オリンピック(昭和39年/1964)や日本万国博覧会(昭和45年/1970)などの国際的なイベントを通じて、日本における食の国際化はますます進行します。特に万博を機に進出を果たしたファストフードが話題を呼び、ハンバーガーやフライドチキンなどが食生活の中に登場するのもこの頃です。

日本万国博覧会(大阪)でのケンタッキー実験店舗
写真提供:日本ケンタッキー・フライド・チキン株式会社
昭和46年(1971) 銀座 マクドナルド一号店
写真提供:japanarchives

「一億総グルメ時代」と呼ばれた1980年代には、積極的に海外へ修業に出向く料理人たちが増え、本格的なフランス料理やイタリア料理を提供するレストランの開店も相次ぎます。この動きと並行して、西洋料理に欠かせないチーズやワインの消費も大きく伸び、食生活は一層洋風化しました。

ちゃぶ台からダイニングテーブルへ

戦後の住環境の変化も、日本の食卓に大きな影響を与えました。戦争の住宅不足を補うため、昭和30年代(1955~65)には、食寝分離を基本とした2DKの団地住宅が誕生。新しい欧米式生活様式の採用に伴い、食事もちゃぶ台ではなく、ダイニングテーブルを囲むスタイルへと移行します。またテーブルのすぐ隣に併設されたキッチンには、水道やガスが整備され、家族と会話を楽しみながら調理するスタイルの浸透にも拍車をかけました。
同時期には、電気炊飯器、電気冷蔵庫、トースター、家庭用電子レンジなどの台所家電の開発も進みます。こうした家電の登場は、調理の負担を軽減するのみならず、大皿で提供する洋風のおもてなし料理のレパートリーを増やすきっかけともなりました。

ちゃぶ台
ダイニング・キッチン

テレビで学ぶ洋食

日本におけるラジオ料理番組のはじまりは、大正14年(1925)。実際の声を通して学ぶというスタイルは、それまで料理書や雑誌などのメディアで新しい情報を得ていた女性たちにとって、画期的な経験となったにちがいありません。 しかし戦後になると、今度はラジオではなく、テレビを通して学ぶスタイルが一般化するようになります。手順が目視できるテレビの料理番組には、エンターテイメントショー的な斬新さや楽しさもあり、洋風料理に憧れる主婦たちの心をすぐさま魅了しました。

テキストと学ぶテレビ番組『きょうの料理』

テレビ料理番組の嚆矢は、昭和31年(1956)に放送された「奥様お料理メモ」(日本テレビ)とされ、ときに30%の視聴率を超えることもあったといいます。
昭和32年(1957)には、現在にまで続く長寿番組『きょうの料理』(NHK)の放送がはじまります。視聴者が家庭で再現できることを意識し、調味料の分量や手順を丁寧に見せるスタイルで話題を集めました。なお初回の放映で紹介した料理は、「カキのカレーライス」。また放送開始から一ケ月の間に、「シチュー」や「マカロニグラタン」が登場し、洋食メニューへの関心も確認できます。さらに放送開始の翌年には、視聴者の家庭での調理の一助ともなるべきテキストが発行されました。テレビを通して学ぶスタイルは、わかりやすさが功を奏し、その後の料理学習のスタンダードとなっていきます。

NHK『きょうの料理』昭和33年
(1958)5月創刊号 
NHK出版 表紙絵 斎藤清

なお講師陣もバラエティ豊かで、東京オリンピック選手村食堂の料理長の一人として活躍した村上信夫(帝国ホテル)、フレンチの大御所・小野正吉(ホテルオークラ)といったトップシェフから、諸外国の料理に精通した料理研究家たちが出演し、本格的な洋風調理のコツを伝授しました。

学校給食での洋食経験

昭和30年(1955)頃の給食風景

戦後、児童の栄養改善を目的に再開された日本の学校給食。パンや牛乳の提供のみならず、積極的な洋風のおかずも採用され、その後の日本人の食の嗜好に大きな影響を与えました。

明治〜昭和初期

学校で給食を出すという取り組みは、山形県鶴岡市で始まります。明治22年(1889)、大督寺というお寺の境内に開校した「忠愛小学校」において、生活が苦しく、食事を満足に取ることが出来ない貧困児童を対象に、無償で食事が提供されたのが最初とされています。このときのメニューは、「塩むすび、魚の干物、菜の漬物」というシンプルなもの。こうした歴史をふまえ、現在も鶴岡市では、この時と同じおむすびメニューを提供する給食の日があります。

その後も徐々に貧困児童救済という名目の下、日本各地で給食は提供されましたが、全国での一斉導入には至りませんでした。時代は下り、日本は満州事変、日中戦争を機に、第二次世界大戦へと突入します。戦地への物資輸送が盛んになると、銃後の生活は食糧不足という難題と向き合わなければならなくなり、昭和16年(1940)にとうとう給食は中止となってしまいました。

明治22年(1889)の給食レプリカ  
(おにぎり、塩鮭、菜の漬物)
大正12年(1923)の給食レプリカ
(五色ごはん、栄養みそ汁)
昭和22年(1947)の給食レプリカ
(脱脂粉乳、トマトシチュー)
昭和期(戦後以降)

戦争が終わると、困難な食糧事情により悪化した児童の栄養状態を改善するため、学校給食の再開が検討されます。昭和21年(1946)には、文部・厚生・農林三省次官通達「学校給食実施の普及奨励について」が発せられ、学校給食の方針が定まります。その先駆けとして、東京の永田町国民学校で戦後初めての学校給食が開始され、その翌年には、全国都市の児童約300万人に対し、学校給食の提供が始まりました。

なお戦後の日本の学校給食において、脱脂粉乳、バター、ジャム、缶詰(ハムやソーセージなど)、小麦粉などの食料を援助してくれたのが、アメリカやユニセフでした。こうした経緯がきっかけとなり、パンと脱脂粉乳(のちに牛乳)が学校給食の定番となっていきます。

また学校給食では、不足していた動物性タンパク質や脂肪といった栄養分を補うために、鯨肉の竜田揚げ、カレーシチュー、魚のフライ、グラタンなどの洋食メニューも数多く採用されました。こうした学校給食での経験は、洋食を好む子供が増える一因になっていきます。

昭和27年(1952)の給食レプリカ  
(コッペパン、ミルク(脱脂粉乳)、
鯨肉の竜田揚げ、せんキャベツ、ジャム)
昭和44年(1969)の給食レプリカ
(ミートスパゲッティ、牛乳、
フレンチサラダ、プリン)
昭和52年(1977)の給食レプリカ
(カレーライス、牛乳、塩もみ野菜、
バナナ、スープ)

上記写真提供はすべて独立行政法人日本スポーツ振興センター

家族の外食に、洋食を!

明治以降の近代化により、都市部では人口が爆発的に増加します。またこれに伴い、家族で日常的に外食を楽しむ機運も徐々に高まりを見せ、洋食を提供するデパート食堂や大衆食堂が登場しました。
また戦後の高度経済成長期以降、海外資本によるファミリーレストランやファストフードという新業態が登場し、お手ごろな値段で味わう洋食の普及を加速させました。

ハイカラなデパート食堂

明治から大正にかけての時期には、百貨店が食堂事業に乗りだし、ハイカラな洋食の提供が始まります。しかし当時の洋食は、庶民にとっては、まだまだ高嶺の花。気軽に口にできるものではありませんでした。
しかし昭和にはいると、徐々に家族で洋食を楽しむ風潮は顕著となっていきます。昭和5年(1930)には、日本橋の三越食堂主任・安藤太郎の発案で、様々な洋風おかずを盛り合わせた御子様洋食(お子様ランチ)が誕生。さらに昭和7年(1932)には、御子様洋食だけでなく、チキンライス、ハヤシライス、パン、アイスクリーム、ココア、フルーツなどといった御子様用メニューも提供されるようになり、家族で洋食を味わう習慣の定着がみられるようになります。

昭和5年(1930)の「御子様洋食」の再現

また戦後の不況期を乗り越え、デパートは東京や大阪などの大都市に限らず、地方へも拡大。休日に家族揃ってデパートへ出かけ、食堂で食事を味わう時間は、昭和を生きる人々の楽しみとなります。
デパート食堂の魅力は、なんといってもバラエティ豊かに展開するメニュー。洋食や和食はもちろん、中華や様々なデザートに至るまで、世代を問わず楽しめるスタイルが功を奏し、家族のきずなを深めてくれる場となっていくのです。

三越日本橋本店 本館7階にある「特別食堂 日本橋」
昭和9年(1934)新館増築時に開設。
その後、改修を重ね、現在に至る。
昭和33年(1958)人で賑わうデパート食堂。

写真提供:株式会社三越伊勢丹

手軽な大衆食堂

一方、街角の大衆食堂の登場もまた洋食の普及に弾みをつけました。なかでも大正13年(1924)に、「簡易洋食」の看板を掲げ、東京・神田に開業した須田町食堂は、カレーライスやカツレツなどの洋食を、デパート食堂よりも格段に安い値段で提供し、後にチェーン展開するほど繁盛するようになります。こうした手軽な大衆食堂の興隆もまた洋食の普及を促したといえるでしょう。

「須田町食堂」
京橋支店の開店当日に撮影した記念写真
大正13年(1924)11月
写真提供:株式会社聚楽
楽しいファミリーレストラン

1970年代には、アメリカ発祥のファミリーレストランが登場します。大阪で開かれた日本万国博覧会(昭和45年/1970)での出店に成功したロイヤルが手がけた「ロイヤルホスト」(昭和46年/1971)をさきがけに、「デニーズ」(昭和49年/1974)、「ジョイフル」(昭和54年/1979)などのチェーン店が続々と開業。その後、日本全国で店舗数を増やし、ファミリーレストランは新たな家族の憩いの場となっていきます。

日本のファミリーレストランの魅力は何といっても、ハンバーグやスパゲッティ、ステーキなどの洋食をメインとしたメニューだけでなく、和風ソースの使用や定食スタイルで提供するなどの工夫が凝らされていること。洋食でありながらも、どこか愛着を感じさせるメニューの提案は、多くの日本人の心をつかむことに成功したといえます。

エピローグ

昭和時代に続く平成・令和時代の日本では、食の国際化がますます進行し、様々な国の料理やスイーツを味わうことが出来るようになりました。また輸入食品店やスーパーなどでは、多彩な海外の食材や調味料の入手も可能となり、インターネットなどのメディアを通じて、気軽にその調理方法やレシピを検索することができます。まさに私たちは、飛行機に乗って出かけなくても、国内にいながらにして、世界中の食文化を享受できる時代を生きているのです。

しかし外国の食文化に夢中になり、国産食材利用への関心や伝統調味料への理解がなおざりになっては本末転倒です。実際、日常食の多様化に伴い、日本人のコメ離れは加速し、食の洋風化に伴う糖尿病や肥満、高血圧などの生活習慣病の増加も、私たちが看過できない重要な課題となっています。

こうした状況を踏まえ、近年では栄養バランスに優れた伝統的な和食の健康価値について再考する研究も増えてきました。今や世界中でも熱い視線を集めている和食。明治以降発展し定着した洋食もまた日本の食文化ではありますが、先人たちの知恵の集積である伝統的な和食のスタイルとうまく組み合わせながら、日々の食生活に取り入れる姿勢も忘れないでいたいですね。

洋風調味料の歴史

家庭向けに開発された洋風調味料の普及なくして、洋食の大衆化はありえませんでした。初期の頃は輸入品が一般的であったため、西洋料理店や上流家庭での使用に限られていたと考えられますが、20世紀以降、徐々に国内での生産が開始され、一般家庭でも手が届くようになっていきました。

トマトケチャップ

愛知県東海市で、トマトなどの西洋野菜の栽培に着手していた蟹江一太郎(現在のカゴメ株式会社の創業者)は、明治41年(1908)、トマトケチャップの開発・製造にこぎつけます。とはいえ、日本人になじみのないトマトを使っての調味料の開発は試行錯誤の連続であったといいます。しかしその努力のおかげで、トマトケチャップは今やオムライスやチキンライス、ナポリタンなどの定番洋食に欠かせないものとなっています。

発売当初のトマトケチャップのラベル
写真提供:カゴメ株式会社
マヨネーズ

最初の国産マヨネーズは、大正14年(1925)、食品工業株式会社(現在のキユーピー株式会社)によって発売されました。誰からも愛されるように、「キユーピー マヨネーズ」と命名。愛嬌のあるキャラクターも魅力です。マヨネーズの商品化は、現在でも人気のあるポテトサラダやマカロニサラダなどの洋食メニューが、家庭料理に仲間入りするきっかけを与えてくれました。

発売当初のキユーピー マヨネーズ
写真提供:キユーピー株式会社
サラダ油

大正13年(1924)、日清豆粕製造株式会社 (現在の日清オイリオグループ)が、「日清サラダ油」を発売しました。「サラダ油」という名称は、冷やしても固まらず、サラダ料理などにそのまま使用できることに由来しています。当時食用油は、主に揚げ物に使うのが一般的でしたが、サラダ油が登場したことで、家庭でのマヨネーズやドレッシング作りが可能となり、食卓の洋風化にも一役買いました。

日清サラダ油1ガロン缶 / 大ビン
大正14年(1925)
写真提供:日清オイリオグループ株式会社

【参考文献】

監修者紹介

東四柳 祥子 ひがしよつやなぎ しょうこ

梅花女子大学食文化学部教授。
石川県出身。専門は比較食文化論。
子どもの頃から、無類の料理書好き。大学時代には、料理雑誌や料理番組の制作アルバイトを経験し、すっかり食文化研究の奥深さにはまってしまう。
最近のお気に入りは、海外の料理書店探訪&箸置き集め。
主な著書に、『近代料理書の世界』(共著)、『日本の食文化史年表』(共編)、
“Japanese Foodways Past and Present”(共著)、『料理書と近代日本の食文化』など。

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