約3000年前、日本に米づくりが伝わってから今日に至るまで先人たちは狭い国土でいかに多くの米をつくるかに心血を注いできました。
日本のクニの成り立ちを記した古事記に「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに、みずみずしく稲が豊かに実る国という意味)」とあるように米は古代から日本を象徴する作物です。
このコーナーでは歴史や文化、美しい景観を通じて、地域の多様な米文化を紹介していきます。
「月山」山形県のほぼ中央に位置する出羽三山の主峰。
山形県の面積は93万ha(全国9位)、その72%を森林が占めています。東に奥羽山脈が南北に走り、それと平行して県の中央から西部にかけては、出羽丘陵から朝日山地、さらに南部の飯豊(いいで)山地へと連なっています。これらの山系から発した多くの支流を合わせた最上川が本流を形成しながら、県中央を横断して流れ、 内陸部に米沢(置賜地域)、山形(村山地域)、新庄(最上地域)の三盆地及び下流域に庄内平野を形成して日本海に注いでいます。
気候は、日本海に面する沿岸部と内陸部に大別され、内陸部は置賜、村山、最上の3地域に分けられます。
沿岸部は庄内平野を中心とし、海洋性気候で、多雨多湿で冬季には北西の季節風が強く、吹雪くこともあります。内陸部は一般的に温暖で気温差が大きく、新庄市を中心とする最上地域は積雪が多く、夏季には大雨となることも多いです。山形市を中心とする村山地域の平野部は、一般的に雨、雪とも少ないですが、月山、朝日山系の山間部は全国有数の多雨・多雪地帯です。米沢市を中心とする置賜地域は穏やかな気候ですが、吾妻山系の山間部は多雪地帯となっています。
周囲を1000m級の山々に囲まれた新庄盆地を抱き、巨大なブナの原始林からの清流は最上川最大の支流鮭川へと集約され、その扇状地に新庄盆地、向町盆地が形成されています。雪が多く、面積の8割を森林が占めるため林業への依存が大きく、食文化の面では川の魚や蟹、山菜など自然の恵みが豊かな地域です。
延文元年(1356)、斯波兼頼(しば・かねより)が羽州管領として派遣され、当時最上と呼ばれていた山形を本拠としたので、姓を最上氏と改めます。戦国期には最上義光(よしあき)が出て、最上、庄内地域へと勢力を拡大します。最上氏改易(元和8年/1622)に伴い、鳥居氏が入封しますが、統治は続かず、幕末まで領主が13回も交代します。この歴史の中で、山形周辺の村山地域の大部分は、北日本一の広さと言われる天領となります。
村山盆地は水利に恵まれた沖積土で、農業に適した土地です。稲作中心ながら古くは紅花や青苧※の栽培、近年は果樹が盛んです。
※イラクサ科の多年生植物で、古くから栽培された。外皮から取る植物繊維は、麻などと同じく非常に丈夫である。
持統天皇3年(689)、優嗜曇(うきたむ)郡(置賜地域)の若者が、都へ正月参賀に参上したことが日本書紀に載っています。和銅5年(712)の出羽国建国以前のことであり、置賜の由来は古来、蝦夷がこの地域を呼ぶ「ウキタム」にあることが分かります。
最上川の源流部に当たり、四方を奥羽山脈や吾妻山地、飯豊山地などの山々に囲まれた盆地形状の地域です。明治11年(1878)、米沢を訪れた英国人旅行家イザベラ・バードは「東洋のアルカディア(理想郷)」と記しているように、縄文の時代から豊かな自然資源に恵まれ、歴史的文化を育んだ地域です。
最上川をはじめ、日向川、月光川、赤川などの三角州を中心に沖積層が堆積してつくられた肥沃な平野は、室町末期から江戸期はじめにかけての大規模な灌漑用水堰の工事や水田開発事業、明治、大正期の耕地整理によって、現在ではその90%が水田化されています。
寛文12年(1672)、河村瑞賢による日本海西廻り航路の開発で「庄内米」は大坂、江戸といった大消費地への販路を拡大しました。また、この航路によって上方の文化がもたらされ、今でも随所に残っています。
月山山麓は雪も多く、米づくりに適した地域とは言えず、農耕と山仕事の双方に関わり、信仰のある生活が送られています。
この異なる四つの地域を結ぶのが「最上川」です。最上川が交通路として利用されてきた歴史は古く、平安時代前期には古今和歌集に詠まれ、源義経が平泉に落ち延びる際に船でのぼったとされています。
本格的な最上川の舟運開発は最上氏時代に開始、三難所の開削や河岸の設置(大石田、船町)を行い、元禄期には米沢藩御用商人西村久左衛門によって黒滝の開削など置賜〜村山間の上流の開発も進められ、米沢藩の舟屋敷が左沢に設けられました。
こうして山形県の四地域を繋ぐ流通、経済のパイプが完成したのです。当時の川を下る物資は幕府領の城米、諸藩の年貢米が中心で、紅花、青苧、煙草、蝋、漆などの特産物、上り物資は塩、干魚、塩魚、古着、木綿、小間物など上方の日常消費物資が中心でした。
縄文時代のクッキー
日本一のブナ林を持つ山形県は、縄文時代も豊かな食料をもたらす落葉広葉樹林に覆われていたと思われます。縄文時代の人口の8割は東日本に分布しており、その理由は西日本の照葉樹林帯の木の実に比べて脂質に富むクルミ・クリ・トチ・ナラの実などの主要食糧が落葉広葉樹林に多かったことや、東日本の河川にはサケやマスが遡ってくることなどがあげられます。こうした豊かさを背景に県内一円に縄文時代の遺跡が確認されています。
縄文時代のクッキー状炭化物は東日本中心に約30遺跡から出土しています。高畠町の押出遺跡のものは、表面にうずまき文様がついているのが特徴で、分析の結果、クリやクルミ(堅果類の木の実)の粉を主原料に作られていることが分かりました。
この地域には、弥生時代前期に北九州より遠賀川系の土器が日本海ルートで伝わり、同時に水田稲作が開始されていたようです。置賜の地名は「日本書紀」にも登場し、条里制を示す地名も残っています。和銅5年(712)の出羽国設置以降、地方を治める体制も整い、地域開発が進められました。
庄内地域は、定住人口が少なかったため、「土地は地味が肥え田野は広いから、国民を移住させ地の利を保つべきだ」との意見が朝廷内で出され、置賜、最上二郡及び尾張、信濃、上野、越前、越後国から数次にわたり、千戸を越す人々が移住します。庄内平野の開発は国家的事業として推進され、奈良時代初期にその基礎が確立しました。
大河川の扇状地での新田開発には、多くの労働力と豊富な資金を持つ安定した領主の存在が不可欠でした。山形では最上氏の統治以降、17世紀にかけて開発が進みます。
関ヶ原の合戦後、57万石の大名になった最上義光により庄内平野の治水と堰の開削が本格化します。赤川右岸の灌漑のため因幡堰の開削に着手(慶長12年/1607)し、慶長17年(1612)には難工事だった北楯堰の工事が始まります。後者の完成によって八十八か村の水田がうるおい、石高も三千石から三万石あまりに増加しました。
最上氏の後を受けた庄内藩主酒井忠勝も稲作を奨励したことによって増産に拍車がかかり、庄内は米の一大産地として全国にその名を知られるようになります。慶安2年(1649)には酒田に米座が設けられ、出羽の酒田は米取引の中心地として大阪の堂島や加賀の金沢と並び称せられるほどになります。また寛文12年(1672)、江戸が大飢饉に見舞われた際には、幕府は河村瑞賢に命じて「西回り航路」を拓かせ、庄内平野から江戸へ大量の米を運び込ませました。米の積出港として繁栄を極めた酒田の様子は井原西鶴の『日本永代蔵』にも記されています。
その他の地域でも新田開発や治水が進みます。米沢平野の農地は享保6年(1721)に16,696haでしたが、上杉鷹山の頃の寛政年間(1789~1801年)には21,709haにまで増えています。明治初期の農地は23,084haですから、寛政の頃に比べて約1,400ha増加しているだけであり、この盆地は鷹山の時代にほぼ開発されつくしたと言えます。
明治前期の稲作は「湿田農法」が中心で、絶えず水を張ることで人力でも作業しやすい反面、土壌改良が進まず収穫高を増やすことができませんでした。江戸後期九州で始まった「乾田馬耕」は、馬の力で土を深く耕せ、肥料の効果も高まり、収穫を増やせることから、明治10年代中頃導入を試みましたが、保守的な土地柄もあり、普及に難を要します。
明治23年(1890)、鶴岡の篤農家平田安吉は福岡県から農事教師を招いて技術導入を図り、さらに大地主本間家は本間農場を創設し、福岡の農業教師伊佐治八郎を招聘、馬耕や乾田法、苗代・肥料改良など新しい技術・農法技術を本間家一族や「土地管理人」に伝習させ、小作人にも指導したので、明治末期には庄内の8割ほどに普及しました。
また、庄内地方は、明治以降多くの民間育種家を輩出しています。これは新しい農法に適した品種改良の必要があったことと同時に、藩政時代から脈々と受け継がれた農家の米に対する情熱の表れでもありました。そのなかの一人が庄内町(旧・余目町)に農家の長男として生まれた阿部亀治です。亀治が育種した「亀ノ尾」は明治末から大正時代にかけて、国内はもとより朝鮮半島や台湾でも栽培され、日本水稲優良三大品種に数えられるまでになりました。現在ではわずかながら栽培されている亀ノ尾ですが、「コシヒカリ」をはじめ「ササニシキ」「ひとめぼれ」「あきたこまち」「はえぬき」などの品種を子孫に残しています。
山形県は昭和の初期まで米が食の中心でした。商品作物としては、明治以降は養蚕が盛んで、積雪地帯であり麦類の適地でもなかったので、米の補食作物は間作程度の規模でした。大根やかぶ、茄子や胡瓜は冬の期間や端境の保存用として漬けられ、里芋、じゃがいもは「いも煮会」といった行事を生みました。
このように米以外の作物が少ないため、山野や河沼から採取してくるものが多く、季節の行事と関わるハレの食もみられます。
- 春:山菜、筍
- 秋:栗、クルミ、とち等の木の実やきのこ類
- 鳥獣の肉
- しゃけ、あゆ、はや、川蟹
- 早春の雪溶けのたんぼから「つぶ」(たにし)、
夏から冬にかけどじょう、秋のいなご
-
「蚕もち」
ハレの日には餅が好まれ、置賜地方では「臼の端もち」(搗き立ての意)といわれるほどです。
-
「丸餅を使う正月の雑煮」
庄内地方では、餅は丸餅、朝のお粥食、干し鯨など北前船でもたらされた関西の食文化の影響がみられます。
-
「鯉のうま煮」
置賜地方では庭の池で飼う鯉や垣根に植えたうこぎなど、いざというときの救荒食として上杉鷹山が進めたものがあります。
出羽三山(月山、湯殿山、羽黒山)は、東北地方はもとより関東・北陸まで信仰を拡げた修験※のメッカで、開祖は崇峻天皇の子、蜂子皇子と伝わります。縄文以来の自然信仰が源流で、月山は山容そのもの、湯殿山は温湯が湧き上がる巨岩、羽黒山は山頂の「鏡池」が御神体です。江戸期には八方七口と呼ばれた登山口やそれに繫がる街道が参詣の人で溢れ、享保18年(1733)には15万7千人もの参詣者があったと言われています。
この門前町で提供される精進料理は、もともと自給自足だったという山伏の食事で、昔はその日に採れたものをその日のうちに生のままで食べていたものが、だんだんと火を通す調理方法も取り入れるようになったものです。生では食べられないアクの強いものも、おいしく食べる方法を探して、塩漬けや乾燥により保存するようになり、客に振る舞うようになっていったようです。
山形県には、地域の人々が古から守り受け継いできた伝統野菜が数多く残っており、野菜以外のものも含めた在来の作物の品種は150を超えると言われています。
米沢の地における上杉氏の統治は、慶長5年(1600)から267年間続きました。その中でも、明和4年(1767)米沢藩主となった上杉鷹山は、殖産興業の奨励や農村の復興を図り、また自ら倹約に努めて藩政の立て直しを行った名君です。
鷹山を補佐した莅戸善政(のぞきよしまさ)は、飢饉対策のために救荒食物を記した「かてもの」を領内に配布しました。穀類とともに食す非常食・保存食を紹介したものですが,野草82種の名称・調理法のほか,味噌・醤油の作り方や魚鳥獣肉の貯蔵法などについても書かれています。この冊子は藩内に配布され,天保の大飢饉で威力を発揮したほか,大東亜戦争時の食糧難にも大いに役立ったと言われています。
大鍋に湯を沸かし、里芋、ねぎ、こんにゃく、牛肉を入れて醤油で味付けする芋煮。現在の豪華な芋煮は、戦前は町の大店の旦那衆や農村の大地主しか食べることができず、一般の庶民は、戦後暮らしが良くなるまではじゃがいもに鯨肉だったようです。
明治末頃から旧制の中学や高校の学生の親睦行事として始まった芋煮は、戦後は幅広い世代で大衆化し、河原を埋めんばかりの盛況をみせるようになりました。これは旧暦4月17日に身近な山に田のカミを迎えにいく行事「高い山」など、昔から地域にある野遊びの風習に根差したものかもしれません。
ラーメン消費日本一
人口10万人当たりの店舗数でみてみると、不動の1位を誇るのは山形県です。総務省の家計調査でも山形市は中華麺への支出が日本一多いという結果が出ています。
また、山形は蕎麦どころでもあり、多数の蕎麦屋がありますが、その多くがラーメンも提供しています。過去には日本最高気温の記録を持っていたこともあるほど、夏は暑い土地柄。そこで生まれたのが冷やしラーメンです。冷やすと固まってしまう豚骨や鶏ガラから脂を取り除いて、旨味があるのにさっぱりしたスープを実現しました。
戦後の食料不足の時代には、ラーメンは安くてカロリーが高いので、ちょっとした御馳走と捉えられるようになったため、来客時のおもてなしにもラーメンが提供されているそうです。
庄内地域の海岸は中世頃まではうっそうとした森林でしたが、戦国時代の戦火、製塩のための薪の利用のための伐採などにより荒廃し、遊佐郷では正保年間(1644〜48)家屋や道路、田畑、河堰などあらゆるものが砂で埋め尽くされるような状況でした。
宝永4年(1707)、藩政改革により林の伐採に規制をかけるとともに、藩から「植付役」として植林の任を受けた先人がクロマツの植林を始めましたが、延享年間(1744〜48)には、複数の村そのものが失われるほどで状況は改善しませんでした。
藩からの依頼で延享3年(1746)、植林事業に乗り出した造り酒屋佐藤藤左衛門・藤蔵親子は、寛政9年(1797)に藤蔵が80歳で亡くなるまで50年に渡り、その家業も犠牲にし、植林事業に生涯を捧げました。酒田の豪商本間家も三代光丘のとき、宝暦8年(1758)に植林事業に着手し、宝暦12年(1762)にようやく松苗が根付き始めます。それから約60年、最上川北岸に一大松林を形成しました。こうした不屈の精神で取り組んだ多くの先人たちの努力により、江戸時代の中期頃には東部砂丘は安定し、西部(海岸線)まで工事の範囲を広げました。
「砂に埋もれる民家と植林の様子」(昭和20年代)出典:東北森林管理局Webサイト
(https://www.rinya.maff.go.jp/tohoku/syo/syonai/gaiyou/syonogaiyou.html)
第二次世界大戦前後、海岸林の放置に伴い荒廃が進む時期もありましたが、昭和26年(1951)から植林事業を再開し、32年を経た昭和54年(1979)までに584haの植林を終え、平成28年(2017)現在、海岸林の人工林面積は674haに及んでいます。
貞観2年(860)に清和天皇の勅命で円仁(慈覚大師)が開山したとされている宝珠山立石寺は、慈恩寺と並ぶ古刹で、松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の句で知られます。
この地方では死者が出ると、縁者が遺骨の一部、特に歯骨を「奥の院」(頂上)の納骨堂に納め、供養をしてもらう風習がありますが、古来日本人は死後近くにある山に行き、そこで子孫や地域の安全を加護してくれると信じていました。その魂は供養や祭りによってより高い山に登り、ついには天に昇っていくのです。供養を怠ると、流行病や天災を起こしたり、冷害をもたらし稲作をダメにするとも言われました。
山形県内の各地には人びとの強い信仰心と、次代に繋いでいこうとする熱意によって連綿と継承されてきた多くの芸能があります。これらが長く伝統的に維持されてきたのは、農業を中心とする近世以降の農村社会の伝統的風土であり、生活と祭りは村落共同体を維持していくために一体だったのです。
黒川能は、鎮守春日神社の氏子(農民)によって500有余年継承されてきました。世阿弥が大成した猿楽の流れを汲んでいますが、いずれの能楽の流派にも属さずに独自の伝承が受け継がれて来た庄内地方固有の郷土芸能です。五流(観世・宝生・金剛・金春・喜多)では既に廃曲となった謡曲や、受け継がれなかった演式も現存し、伝わっています。
奉納神事でもあるため、最初にまず能を演じるにあたり、春日神や氏神などの大神の許しを受けるために神主が祈祷してから能を舞います。そのため能役者は玄人の能楽師によるものではなく、囃子方も含めて春日神社の氏子が務めるのが習わしです。
貞観二年(860)の立石寺開山の折、大阪市四天王寺の楽人林越前守政照が円仁に従って東国に下り、四天王寺の舞楽を山寺に伝えたと古記録に記されています。その後、その子孫は山寺で例年舞楽を奉仕し、室町時代に慈恩寺(寒河江市)に、さらに江戸時代初期に谷地に移り住み、山寺・慈恩寺・谷地八幡宮の舞楽を司り現在に至ります。
林家舞楽は早くに地方に下ったため、平安中期以降の楽制改革(日本化)の影響が少なく、よりシルクロードの面影をとどめていると言われます。立石寺の臨時法会、慈恩寺は五月五日の一切経会、谷地八幡宮は九月の例大祭にて奉奏しています。
杉沢比山は、遊佐町杉沢地区に伝わる番楽です。番楽とは山伏によって舞われる神楽のことで、熊野神社に奉納されます。起源については、はっきりとした記録は残されていませんが、能楽大成以前の古い様相を残すことから、少なくとも鎌倉時代ころまでさかのぼると考えられています。鳥海修験の隆盛期に修験者によって舞われたものが、その衰退とともに、いつしか村人の手に受け継がれていったと考えられています。鳥海山を月山に対し「日山」と見立てた時代があり、その「日山(鳥海山)」に伝わる番楽という意味で、「日山(比山)番楽」と呼称したのではないかという説があります。
鳥のカタチの藁蓑を被った若者がカセ鳥となり、町を練り歩く伝統行事。冷水をかけ、五穀豊穣と商売繁盛を祈ります。
農耕の模擬をして豊作を予祝する小正月に行われる行事です。
東北地方に広く見られる鎮魂芸能。奈良時代に伝わった「獅子舞」とは違い、「イノシシ(猪)」、「カノシシ(鹿)」の「シシ」を意味します。
草木塔
置賜地方に多く見られる草木塔(そうもくとう)は、伐採した樹木に対して感謝と供養の気持ちを込めて建立された石塔のことで、置賜独特のものだといわれています。現在確認されている草木塔の中で最も古いとされるのが、安永9年(1780)に建立された「塩地平(しおじだいら)の草木塔」で、碑文には「草木供養塔」と刻まれています。