3泥土くい
冬期の泥土揚作業は堀を深く広くし、
田植え時期に大事な水を貯めるだけでなく、汲み上げた泥土が優良な肥料となって田を肥やしました。
約3000年前、日本に米づくりが伝わってから今日に至るまで先人たちは狭い国土でいかに多くの米をつくるかに心血を注いできました。
日本のクニの成り立ちを記した古事記に「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに、みずみずしく稲が豊かに実る国という意味)」とあるように米は古代から日本を象徴する作物です。
このコーナーでは歴史や文化、美しい景観を通じて、地域の多様な米文化を紹介していきます。
「歌垣公園からの眺望 (白石平野)」
写真提供:佐賀県観光連盟
この地域は古くは日本書紀の不知火伝説から「火の国」、転じて「肥の国」と呼ばれており、7世紀末から8世紀初頭の文献に「肥前」と「肥後」の国名が確認できます。また、「佐賀」の語源は、日本武尊がこの地を訪れた際、クスの樹が栄え繁る様を見て「栄 (さか) の国」と言ったことに由来すると肥前風土記にあります。
県内の地勢は大きく3つに分かれます。
年間平均気温は16℃前後と比較的温暖で、降水量は年間1800mmと全国平均より多く、山間部では2500mmに達します。対馬暖流の流れる好漁場の玄界灘と潮の干満差が日本一の有明海に挟まれ、平野部には総延長2000kmにもなるクリーク(水路、堀) が張り巡らされています。
文化的には南北で大きく二つに分かれます。鍋島藩のお膝元で「葉隠れ精神」に代表される質実剛健な気風と秩序と安定を志向する佐賀エリアと、頻繁な藩主交代で根付いた支配が及ばず自由闊達な気風と華やかな町人文化の唐津エリアです。
世界を席巻した有田・伊万里の磁器や1300年の歴史を持つ武雄・嬉野の温泉も観光地として有名です。
江戸期、現在の鳥栖・基山地域は米の取れない対馬藩の飛び地 (田代領) で年貢の負担が大きく、農家の副業として朝鮮貿易で入手した朝鮮人参などの薬種を活かした製薬・売薬業が発展しました。宝暦年間 (1751〜1764) には博多での行商の記録も伺え、幕末〜明治の頃には行商圏は九州一円から中国地方にも及びました。
「白石平野の水田」写真提供:佐賀県観光連盟
「菜畑遺跡」は縄文時代晩期後半 (前10世紀頃) から弥生時代中期(前4〜後1世紀) にかけて丘陵の谷間に営まれていた水田稲作の変遷が分かる遺構です。 現在確認できる日本最古の水田跡とされています。
(写真提供:唐津市教育委員会)
「吉野ヶ里遺跡」は弥生期に発展した日本最大の環濠集落群で、稲作を中心とした社会形成の発展過程が分かる史跡です。弥生時代前期 (前5世紀頃) から集落が形成され、弥生時代中期の紀元前2〜紀元1世紀に推定20ヘクタール以上の環濠集落へと発展します。この頃に出現する長さ40mを越える墳丘墓と銅剣やガラス管玉などの埋葬品から王の誕生が見られます。
弥生時代後期 (1〜3世紀) には40ヘクタールを越える規模となり、環濠・城柵・物見櫓などによって堅固に守られた内部には政治の中枢、祭祀、工房、交易の市、居住の場など、当時の中国の城郭都市を想起させるものとなります。
有明海は6〜7mにもなる干満差があります。筑後川をはじめとする河川から運ばれる土砂はいったん沖合に流されますが、満潮のときに海岸近くに逆流し堆積します。徐々に広がる干潟を人びとが長い年月をかけて農業に適した土地にするために改良を加えてきました。その中でクリークや干拓など独特の農業技術が発展したのです。貝塚のある位置から約一万年前は吉野ヶ里遺跡のあった場所も海岸線の近くだったことが想像されます。
佐賀平野は大きな河川が少ないため常に水不足の状態でした。一方海抜5mのため大雨や台風、有明海の高潮、筑後川の洪水が重なるとすぐに水害に見舞われるのです。このため、奈良期以降「堀」をめぐらせる独特の水利が発達しますが、戦国期までは各地で自由気侭な水利体系が取られていました。
このような状況の中、水利事業によって鍋島藩の基礎を築いたのが成富茂安です。佐賀平野の治水事業はもちろん筑後川の洪水防御、有明海干拓を前提とした沿岸事業など、ほぼ現在の水利大系をつくりあげた彼の事業は、まさに幕藩体制確立期における領国経営の都市/農村計画そのものでした。
(永禄3年(1560)〜寛永11年(1634))
龍造寺隆信、鍋島直茂・勝茂親子に仕え、合戦、築城、外交、検地等さまざまな軍役で活躍しました。
古くは「水汲み桶」、江戸中期からは「足踏み水車」による揚水は大変な労苦を伴う作業で、
「正月より盆より雨が嬉しい」と言われました。
貴重な水の漏水を防ぐ独特の
耕作法「水田馬耕」は、
特殊な犂(すき)を用いて
土壌の亀裂を防ぎ、
耕盤を練り固めるものです。
冬期の泥土揚作業は堀を深く広くし、
田植え時期に大事な水を貯めるだけでなく、汲み上げた泥土が優良な肥料となって田を肥やしました。
※ 写真提供:佐賀県農業試験研究センター
また、江戸時代までこの地域で早生の大唐米 (インディカ米) の生産が多かったのは農繁期の分散に加え、干ばつにも強い品種で、収穫量は少なくても毎年安定した収穫があったために選択されたものと考えられます。
水不足に苦労した歴史も、大正期に電動ポンプが導入されたことで状況が一変します。
さらに農民と県が一体となって生産拡大に取り組んだ結果、昭和13年には反収417キロ (全国平均321キロ) を達成、その後一時収量は落ち込みましたが、戦後の土地改良事業や北山ダム建設で再び日本一を達成しました。このような佐賀の農業の手法を「佐賀段階」と呼び、日本農業の手本とされたのです。
写真提供:佐賀土地改良区
佐賀平野を中心に背振山地から有明海沿岸では白米はハレの日の食事で、ふだんは麦飯等のかて飯や茶粥、裏作の小麦でつくったうどんやそうめんもよく食べられました。水田の少ない玄界灘沿岸や多良山麓では、麦やさつまいもが主食でした。
玄界灘沿岸でも米を節約するため雑穀を利用したさまざまな「ずうし(ぞうすい)」が食べられました。
漁業の主要産物であるいわしもよく食べられています。
有田や伊万里地域では「一窯開けば金が入る」と言われ、経済力があるため米を購入して食べました。「有田の食い道楽」や「質に入れてもうまかもんを食べる」ということばに象徴される贅沢な食文化があったのです。
佐賀県は玄界灘の魚介、有明海の個性豊かな魚介、平野〜干拓地に繋がるクリークなどの淡水魚介と
他に類を見ない多彩な魚食文化があります。
この地域のくじら文化は江戸時代に最盛期を迎えます。室町時代後期に紀州で組織商業化が始まった捕鯨は、五島や平戸、壱岐地方にも伝わり発達しました。呼子・小川島では、宝永年間 (1704〜11) に創業されたと伝えられます。
「鯨一頭捕れば七浦にぎわう」と言われるように一回の漁で千人近くの集団が動きました。
捕獲された鯨は捨てる部分がなく利用され、鯨油は灯明や稲の害虫駆除、骨は粉にして肥料として利用されました。捕鯨に携わる人々は鯨の霊を弔うため、供養塔を建立もしています。
明治38年 (1905) から始まった海苔養殖は、当初干満差の大きい佐賀地区では苦戦しますが、
養殖技術の発展によって昭和30年代以降成長を遂げ、近年では日本一の水揚げ量を誇っています。
写真提供:鹿島市観光協会
16世紀末より朝鮮人陶工の技術によってはじめられた唐津焼は、西日本地区では陶器といえば「からつもの」と呼ばれるほど席巻し、日用雑器から茶の湯で求められた侘びの姿をもつ名品まで幅広くつくられました。
秀吉の朝鮮出兵の際に連れ帰られた朝鮮人陶工によって良質な陶石が有田で発見され、1610年代頃に日本で初めて磁器の焼成が始まります。
その後、中国の内乱(17世紀の明清交替) によって磁器の輸入が止まり、中国の技術流入によって品質が向上し、生産量も増大します。大消費地江戸の需要だけでなく、欧州からも大量の注文が入るようになり、藩の大きな収入源となっていったのです。
背振山麓は鎌倉時代、僧栄西が中国から持ち帰った茶の種が根付いたところとされ、
後にこの茶畑の種子を山城国栂尾にある高山寺の明恵上人に贈ったことで
各地に茶が広がったと言われています。
佐賀県は、昭和46年(1971)までアルコール消費で清酒がトップ(全国では昭和34年(1959)にビールにその座を譲っている) という日本酒文化の土地で、さらに清酒の消費量の6割以上が地元産という酒処でもあるのです。※平成26年(2014)時点。
平成23年(2011)「鍋島」がIWC (インターナショナルワインチャレンジの日本酒部門) でチャンピオンに輝くなど佐賀の清酒は世界でも評価されています。
日本三大松原のひとつで大正15年(1926)に松原として全国唯一の国の名勝地に指定されたのが「虹の松原」です。当時で東西約6キロ、南北の幅最大500mもありました。
唐津藩初代藩主寺沢広高の時代(1593〜)、唐津湾に面して造成された耕地を冬期の強い潮風による塩害から防ぐために黒松の植林が始まったとされます。黒松が十分に成長するのに約20年ほどかかり、元和年間(1615〜24)には当地の石高の記録がないため、稲作の防潮防風に役立つような松原になったのは元和年間以降と考えられます。
佐賀県は肥沃な平野を有する全国屈指の農耕地帯であるため、農耕神事に伴う芸能が発達してきました。近代以降も自然との共存が比較的保たれ、伝統芸能が大きく変化することなく、農村共同体の中で維持されています。
12年に一度、申年の4月初申の日から13日間にわたって神埼市の仁比山神社で行われる神事で、奉納される「御田舞」は平安時代に朝廷で執り行われていた田楽を伝えるものとされ、古式豊かな田打ちや田植えの所作が続き、勇壮な「鬼舞」で締めくくられます。
江戸時代には鍋島藩の保護もあり、豊作を祝うイベントとして盛大に行われていました。「肥前古跡縁起」(寛文5年(1665)成立)にも「老若男女集まる事目を驚かす御法事也」とあります。
写真提供:神埼市観光協会
長崎街道沿いの旧鍋島藩領に多い民俗芸能で、風流の転訛と言われています。神仏に五穀豊穣を協同祈願する宗教行事として発祥し、かつては稲作行事に合わせ頻繁に催されていたようです。
「天衝舞浮立」、「面浮立」、「舞・踊浮立」、「太鼓浮立」などさまざまな浮立があり、現在は地域によって春の予祝や夏の祇園、秋の収穫祭「くんち (供日)」に氏神社に奉納されています。