プレナスの原点

プレナスの原点、それは135年引き継がれる「食へのこだわり」です。

プレナスは、1960年 創業者 塩井末幸によって誕生しました。

株式会社プレナスは、1931(昭和6)年生まれの塩井末幸(創業者)により、1960(昭和35)年に創業された有限会社太陽事務機にはじまっています。常に時代の変化を読み取りながら事業に取り組んできたプレナスは、1980年には食の分野に参入。創業以来の「はじめに消費者ありき」という思いを継承し、食にこだわりながら、「おいしさ」を追求してきました。

持ち帰り弁当の店「Hotto Motto(ほっともっと)」や定食レストラン「やよい軒」の事業を通じプレナスは、お客様にあたたかいおいしさをご提供して、2020年で、創業60周年を迎えました。まさに、「食に対するこだわり」こそがプレナスの根幹を流れる企業文化ですが、食との関わり、「食へのこだわり」のルーツをたどれば、それは日本の黎明期である明治時代にまで遡ります。

塩井末幸

「食へのこだわり」は、明治時代に遡ります。

民次郎

覚書1

覚書2

江戸時代、塩井家は、将軍家の直参家臣(じきさんかしん)である武家・御家人(ごけにん)の家柄でした。時代は流れ、国を挙げて近代化にすすむ激動の明治時代。西洋の制度、産業、技術が相次いで導入されるなか、1872年(明治5年)、東京築地に、西洋料理店の草分けとされる築地精養軒が誕生します。1876年(明治9年)には、上野に支店(現在も上野精養軒として営業中)、ホテルを開業、日本No.1の西洋料理店として名声を馳せました。プレナス創業者塩井末幸の祖父にあたる塩井民次郎は、その精養軒二代目の厨士長(現在の料理長)として活躍します。

風俗画報1

風俗画報2

日本の西洋料理の黎明期について書かれた日本司厨士共同会沿革史(1934年発行)には、「上野精養軒の田中清吉氏、塩井民次郎氏…の諸氏は外人司厨士、リオン長尾事オテントーと称(旧字)する佛人や、支那人司厨士等を横濱より招き研鑽甚だ啓発されるありて、やがて今日の繁盛を致す源となった次第である」とあります。宮中の晩餐会や式典の料理を担当する上野精養軒で腕を磨いた塩井民次郎は、1886(明治19)年、日本橋区南茅場町(みなみかやばちょう)に、西洋料理店「彌生軒(やよいけん)」を開業します。

当時の「彌生軒」の名は新聞広告やさまざまな雑誌、画報にも紹介されています。幼少時代に南茅場町に暮らした明治の文豪・谷崎潤一郎は、その著作の中で、「私(の家)は … 明治廿四年の秋までの間に、南茅場町の四十五番地に引き移ったらしい。 … 間もなく私の家の隣に保米樓(ほめろう)という西洋料理屋ができた。」「南茅場町の薬師の地内は … 神社や数々のお堂の外に、保米樓よりも古い西洋料理屋の彌生軒 … などがあり」と書き記しています。(谷崎潤一郎 「幼少時代」谷崎潤一郎全集(中央公論社)第十七巻)

彌生軒看板(江間政発 書※1)

民次郎は、武家から転じて事業を興した人々のなかでも、たいそう成功した人物で、銀座には別荘を持ち、電話もごく早い時期から、「彌生軒」、別荘の両方にひいていました。「彌生軒」のお客様は、政府高官なども多く、ご来店者として名が伝わっている方をあげれば、陸軍大将・大山巌、勝海舟、警視総監・樺山資紀(かばやますけのり)らがいます。

彌生軒公告

大山巌

樺山資紀

勝海舟

谷崎潤一郎「幼少時代」

プレナスの東京本社である「日本橋弥生ビルディング」は、明治期に「彌生軒」のあった場所にほど近く、まさに時代を超えた巡りあわせを感じます。そして、この「彌生軒」の名が、現在の「やよい軒」に引き継がれているのです。

  1. 江間政発(えま‐せいはつ 1851-1916):明治時代の漢学者。号は蘇洞。元桑名藩士。松平定信の事績を調べ、1893(明治26)年「楽翁公遺書」を刊行。翌年渋沢栄一が企図した徳川慶喜の伝記編修事業に加わり、史料収集にあたった。

塩井末幸の父である和助にも、その思いは引き継がれました。

塩井民次郎の長男・和助(塩井末幸の父)は、前述した谷崎潤一郎の2歳上にあたる1884(明治17)年の生まれ。この和助も、明治、大正から、昭和の戦前・戦後を、「食」とともに生きました。

和助

和助一家

また、「大正十年、十一年 練習艦隊巡航記念」という写真集アルバムの巻末の名簿に「塩井和助」の名が確認でき、巡洋艦「出雲」に「割烹」として乗り込み、世界を巡ったことがわかっています。海軍における「割烹」とは、民間から雇った軍属の役職名で、軍艦に搭乗する将校の食事調理にあたるほか、要人を軍艦に招待した際の会食料理の調理にも従事しました。巡洋艦「出雲」は、フランスにも寄港していますので、和助の乗船は、西洋料理・現地修業のためのフランス留学も目的としていたのかもしれません。和助は、フランス語に堪能で、メニューもすべてフランス語で書き記していました。

練習艦隊巡航記念1

練習艦隊巡航記念2

米内光政

犬塚太郎の書簡

和助は父から引き継いだ「彌生軒」を閉め、朝鮮へと渡り、釜山のすぐそばの軍港鎮海(ちんかい 朝鮮名 チンヘ)にて家族で暮らします。

和助は、鎮海では歴代の鎮海要港部司令官も訪れる「鎮海水交社※1」のレストランで料理人として働いており、店にはのちに総理大臣になる米内光政※2も来店したと伝えられています。また、米内よりも前に要港部司令官だった犬塚太郎※3とはとくに親しかったようで、家族ぐるみの付き合いであったことが残された書簡からも伺えます。

終戦後は日本に家族で引き揚げ、後にプレナス創業の地となる佐世保に落ちつきます。戦後の和助は、これまでの経歴が高く評価され、長く「佐世保将校クラブ」の料理長をつとめました。和助のフランス仕込みの繊細な料理は、米軍の将校たちに大変愛されたといいます。

  1. 「水交社」とは、戦前、海軍省の外郭団体として創設された日本海軍将校の親睦・研究団体
  2. 米内光政(よない‐みつまさ 1880-1948):29-31期「鎮海要港部司令官」、のちに海軍大臣を経て内閣総理大臣
  3. 犬塚太郎 (いぬづか‐たろう 1875‐1936):25期「鎮海要港部司令官」

明治・大正・昭和・平成・令和と、食への思いは根付き、今も、そしてこれからも受け継いでいきます。

こうして塩井民次郎、和助の生涯をたどると、現在の食に携わるプレナスのルーツが、明治に遡って刻印され、現在にまで連綿と続いていることがわかります。まさに「食」に賭けた塩井家のなかで育ったことが、塩井末幸の、そしてプレナスの原点といえるでしょう。また、明治中期に西洋料理店という新分野に挑んだ民次郎、戦争へと向かう困難な時代にあっても食への研鑽を惜しまなかった和助へと続く塩井家のスピリットは、プレナスにも受け継がれ、現在にまで続くプレナスの「つねに新しい 時代にチャレンジする精神」に継承されています。

プレナスは現在、年間3億を超える食を世界にお届けしています。西洋料理店『彌生軒』から受け継がれる「食へのこだわり」を大切に、日本の食を世界に届け、世界の食文化の発展に貢献する。プレナスは、その精神を胸に、次の100年へ向かってかってチャレンジを続けます。

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