展示内容

Exhibition
2021.9.1~10.31

仕事を支えたお弁当

時代や環境の中で様々な仕事があり、人々の真摯な労働が世の中を作り、生活を支えてきました。その仕事の場で、働く人を支えてきたのが「お弁当」です。
「お弁当」は単に空腹を満たすためだけでなく、「仕事をする力となりますように」「おいしく食べられますように」、「しっかり働くぞ」「災害にだって負けないぞ」、作る人と食べる人のそんな思いがこめられています。一人で食べるときも仲間と食べる時も、お弁当はそうした思いとともにあります。お弁当には、働く力となるとともに家族や仲間との絆を深める力もありました。
また、働く人々のお弁当箱には、日常の用途に応じた使いやすさという機能だけでなく非常時に際しての知恵や工夫も凝らされています。仕事の場でのお弁当は質素なものですが、そこから人々の生活や思いを伺い知ることができます。


監修・解説:権代美重子(食文化研究家)

農業では、かつて田植えは時期をはかって村総出で一気に行う必要のある特別な共同作業であった。大きな桶に全員分の握り飯やおかずをぎっしり詰めた「桶弁当」が用意された。それは普段と違うごちそうであり、一日続く前かがみのきつい作業の休憩時にみんなで食べるお弁当のおいしさは格別なものであった。

年中行事を描いた室町時代の八曲一隻の屏風で、第三・四扇に田植えの様子が描かれている。上部には大きな桶にお弁当をたくさん入れて運ぶ女性や男性の姿が見える。田植えする傍らでは面をかぶって小鼓や太鼓で囃す人たちがおり、その足元の桶には酒や酒器が入っている。このたくさんのごちそうが働く楽しみであり励みとなった。まさにお弁当は仕事を支える力であった。

漁師の仕事は魚が活発に動く夜明け前から始まり、水揚げまで休む間もない重労働である。漁師の弁当はヒノキ製の2段弁当、7合のごはんが入る。漁で捕った魚を使ったみそ汁がおかずだ。海での仕事は天候に大きく影響され、嵐に見舞われての転落事故も珍しくない。その時、気密性のある弁当箱が「浮き=救命具」となる。浸水時には水を掻き出す桶にもなった。

一般に外での仕事に携行したのが、この「わっぱ弁当」である。スギやヒノキなどの薄い木板を曲げて作った弁当箱は、軽くて通気性がよく中の食品が傷みにくい特徴を持っている。また木肌が余分な水分を吸い適度な湿度を保ち、ごはんのおいしさが冷めても変わらない。スギやヒノキの持つ抗菌作用にも注目である。

武士も弁当をもって出仕した。「腰弁当」は馬に乗って遠出をするときや狩りのときに腰に縛り付けて携行した。「野駆け弁当」とも呼ばれ、腰の曲線にピッタリ沿う形をしており、どんなに馬が駆けても落ちることはなかった。

狩りや行楽時に携行した腰に沿う形をした酒筒である。熱燗を入れて腰に巻くと寒い日は湯たんぽ代わりに温かく、冷酒を入れておくとお弁当を広げる頃には丁度人肌の飲みやすい温度になった。

大名も「月次御礼」と言って月に三回弁当を持って江戸城に登城し将軍に拝謁した。持参した弁当を「御登城弁当」という。大名といえども、弁当は握り飯と椎茸と干瓢の煮物、味噌漬大根といった質素なものであった。家来は城内には入れず、大名同士の私語は禁じられていたので、大名は一人で弁当を食べていた。

昭和20年太平洋戦争終了。戦災で荒廃した国土の復興が戦後日本の重要な課題であり、いち早く着手されたのが道路や公共施設の建設をする土木事業であった。まだ建設機械が普及していない時代の作業は激しい肉体労働であった。その作業に従事したのが「ニコヨン(※1)」と呼ばれた日雇い労働者である。激しい力仕事の肉体労働を支えたのが、大量のごはんを詰めた「ドカ弁(土方(※2)の弁当)」である。大型のアルマイトの弁当箱にぎっしり詰められたごはんとその上にのっている梅干し、それが彼らの空腹を満たし働く力となった。今日の日本の繁栄の礎を築いた背景に「ドカ弁」がある。

※1 1949年に失業対策法で定めた東京都の日雇い労働者の定額日給が240円で、百円札2枚と、十円札4枚であったことに由来する。
※2 土木工事に従事する労働者のことを「土方」といった。