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Exhibition

「秋、収穫に感謝を込めて」 2024.10.31まで

暑かった夏も過ぎ、九月になると秋の気配が感じられるようになります。
秋は収穫の季節、だんだんと野山が色づき、稲田も黄金色に染まっていきます。稲の収穫作業は、収穫が早い早稲刈りに始まり、収穫が遅い晩稲の収穫まで続きます。忙しいながらもうれしい作業です。
日本は「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」と呼ばれ、米は天上の天照大神からいただいた大切な食糧でした。収穫した米は感謝を込めてまず神に供えられます。また民間では「大黒天」が五穀豊穣の農業の神として信仰されてきました。「案山子(かかし)」を田の神として祀る地方もあります。今回は、そうした日本の稲作に関する習俗を紹介します。近年注目されている「田んぼアート」についても紹介します。
日本人の稲作や米に対する思いを共有したいと思います。

秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ  天智天皇御製
(田圃の隅に建てた仮小屋に泊まり、稔った稲田を鳥獣に荒らされないように番をしていると、                                                夜も更け屋根を葺いた苫(スゲ・カヤ)の隙間から夜露がしたたり落ちて、私の衣を濡らすことよ)

解説・監修 食文化研究家 権代美重子 

秋の収穫の風景

「稲作の一年」 

米は日本人の主食です。主食であるだけでなく生活のいろいろな場面で活用され、さまざまな行事でも尊ばれてきました。「田おこし」から「収穫」まで、心を込めて育ててきました。「米」という字は「八、十、八」と書きます。人々の口に入るまで、お百姓さんの八十八回の手間がかかっています。かつて、子供たちは「その労を思い一粒だにおろそかにしてはならぬ」と教えられました。 

「文部省発行錦繪 : 衣喰住之内家職幼繪解之圖等」 筑波大学付属図書館蔵
明治6年(1873)に文部省は「幼童家庭の教育を助くる為めに」錦絵を刊行しました。                                     この絵は、稲作の図で「稲の種類」「田植」「水車」「脱穀」「米蔵」が描かれています。

「脱穀作業の様子」

秋になって稲穂が稔り穂を垂れる頃になると、田の水を抜き田を干して鎌で稲を刈り取ります。竿にかけて五日ほど干して天日と風で乾燥させます。水分を少なくして米を変質させにくくするのです。 
この絵では乾燥後の脱穀の様子を描いています。乾燥させた稲の穂先から籾を落とす脱穀です。「稲扱き(いねこき)」とも言います。図の右側では「竹製の扱き箸(こきはし)」で女性たちが脱穀しています。後ろの女性たちは、籾が付いたままの小さな穂先を唐棹(からさお)で何度も叩いて脱穀しています。次に、籾に混ざっている稲の葉や藁くずを取り除きます。左にあるのは「唐箕(とうみ)」という道具で、人工的に風を起こし、籾や藁くずなど重量の軽いものを選別して取り除きます。この後、籾から籾殻(もみがら)を除去して玄米にする籾摺り作業です。さらに籾と玄米の選別やくず米や砕け米の除去などを行い、玄米を精白すると白米になります。
 「粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)」という言葉がありますが、一粒一粒を苦労して育て、刈り取ったあともさまざまな手間をかけて稲は米という食料になります。その労を知ると一粒なりとも無駄にはできません。

写真提供:株式会社クボタ/資料所蔵:奈良県立民俗博物館

「稲作神話」

稲作は縄文時代より始まり、以来約3000年余にわたり日本人の主食として大切にされてきました。「古事記」や「日本書紀」には、稲作の始まりについてこう書かれています。天照大神が地上を治めることを孫のニニギノミコトに託したとき、天照大神は民が飢えることがないようにと、天上の高天原(たかまがはら)にある斎庭(ゆにわ)の稲穂を与えました。それを以て毎年五穀豊穣とするよう言い渡しました。ニニギノミコトはその命を受け、代々日本の皇となるものにその命を引き継いでいきました。 

「新嘗祭」

「新嘗祭」はその年の収穫に感謝して新穀を神様にお供えし、来年の豊穣を願う行事です。日本書紀にも登場するほど古くから行われてきた行事で、現在では全国各地の神社で11月23日に行われています。本来は宮中祭祀で、ニニギノミコトの子孫とされる天皇陛下が天照大神をはじめ八百万の神々にその年の新穀を供え、収穫に感謝し五穀豊穣を祈り、自らも一緒に召し上がります。農耕が生活の中心であった時代、豊作に感謝し祈願することは国家の安泰、国民の繁栄を祈ることに他なりませんでした。
新嘗祭はもともと、旧暦11月の2回目の「卯の日」に行われていましたが、明治6年(1873)、新暦に移行するときに11月23日になり、そのまま「新嘗祭」という祝日になりました。昭和23年(1948)、「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことを目的に「勤労感謝の日」と名前が変わり、国民の祝日となりました。
新嘗祭に先立って執り行われる「神嘗祭」は、天皇陛下自らがつくった新米を天照大神にささげる祭典で10月15~17日に伊勢神宮で行われます。 

「皇居での米づくり」

皇居における天皇陛下による稲作は、昭和天皇が農家の苦労をしのぶために始められました。
天皇陛下自ら、毎年5月に皇居内の水田で「御田植」をされ、9月に「御稲刈り」をされます。収穫された稲の一部は伊勢神宮に奉納され、皇室の神事にも使われます。

民間「大黒天」信仰

「民間における大黒天信仰」

日本には古来より八百万の神々がいるといわれていますが、その中でも七福神は人々から厚く信仰されてきました。七福神は、「大黒天、恵比寿天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋尊」の神々をいい、七福神を信仰すれば、七つの幸福を授けられ、七つの厄災が取り除かれると言われ篤い信仰を集めてきました。
「大黒天」は、福相で左手に袋、右手に槌、米俵に乗った姿で描かれ、食物・財福を司る神・豊穣の神として親しまれています。もともとは、ヒンドゥー教のシヴァ神のことで、日本には密教の伝来とともに伝わりました。シヴァ神は戦闘の神ですが、日本では大黒の「だいこく」が大国に通じるため、古くから神道の神である大国主と混同され、豊穣の神として信仰されてきました。日蓮宗の宗祖日蓮は「慈眼視衆生 福寿海無量 皆令離苦 得安穏楽 寿福円満 開運招福」と、慈眼をもって衆生をいつくしみ貧しき人に福を与え、一切の人をして苦を離れしめ安穏の楽しみを与える福の神であるといいました。
大黒天が左肩に背負う袋は財宝、右手に持つ打ち出の小槌は湧き出る富、足で押さえた米俵は豊作を意味しています。

「かかしあげ」

「かかし(案山子)」は、竹やわらなどで作った人形で、田や畑などの中に設置して、作物を荒らす鳥などの害獣を追い払うためのものです。民間習俗の中では田の神の依代であり、霊を祓う効用があるとされています。蓑や笠を着けていることは、神や異人などの他界からの来訪者であることを示しています。
「かかしあげ」とは、長野県や山梨県などで行われている農耕行事の一つで、旧暦10月10日に 「かかし」を田から引き上げ庭に立てます。ずっと稲田を見守り続けてくれた「かかし」を田の神として祀り、餅などを供えて今年も無事に収穫できたことの感謝をささげます。そのあと、「かかし」をお焚き上げして天に帰します。長野県の諏訪地方ではこの日は「かかし」の田の神が天に上がる日といい,南安曇地方では「かかし」が田の守りを終えて山の神になる日だといわれています。

「亥の子」

「亥の子」は、一般的には旧暦十月初亥の日に行われる豊作への感謝を込めた祝いの行事です。
主に西日本で見られ、亥の子餅を作り食べて万病除去・子孫繁栄を祈ります。子供たちが地区の家の前で地面を搗(つ) いて回る地方もあります。地面を搗くのは、田の神を天に返すためとか、猪の多産にあやかるためなどと言われています。また、この日に炬燵(こたつ)開きをすると、火災を逃れるとも言われます。

田んぼアート

「田んぼアート」

近年注目されているものに「田んぼアート」があります。
「田んぼアート」とは、田んぼをキャンバスに見立て色の異なる稲を使って、巨大な絵や文字を作り出すプロジェクトのことです。1993(平成5)年に青森県南津軽郡田舎館村で村おこし(地域活性化事業の1つ)として始まりました。2010年以降に日本全国に広まり「全国田んぼアートサミット」も開催されるほどになりました。
大規模なものの多くは斜め上から見る前提で図案を設計し、これに基づいて遠近を考慮して稲を植えます。使用する稲は背景の緑部分は現代の栽培種、図柄の部分には古代米と呼ばれる種や特別に育成した鑑賞用の稲が使われています。これらの葉や穂の色の緑色、黄緑色、濃紫、黄色、白色、橙色、赤色が図柄を引き立てます。今は11種類7色があります。
今や全国に100か所以上の「田んぼアート」が作られており、先駆の田舎館村には村民8000人をはるかに超える20万人以上の見物客が訪れるようになりました。埼玉県行田市の「田んぼアート」は2.7ヘクタールの規模を誇り、2015年に「世界最大の田んぼアート」として、ギネス世界記録に認定されました。

「田んぼアート」が出来るまで

「田んぼアート」の写真・資料提供:田舎館村