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2024.8.31まで

「さわやか&元気をくれる 夏の飲み物」

夏到来です。地球温暖化の影響でしょうか、年々暑さが厳しくなっているような気がします。暑いときに、元気をくれるのが冷たい飲み物!さわやかな涼感だけでなく、ぐったりしがちな身体をシャキっとしてくれます。今はエアコンも冷蔵庫もありますが、それらがない時代人々はどのように夏を過ごしていたのでしょうか。滝沢馬琴(1767~1843)の日記には「中暑(ちゅうしょ)」「霍乱(かくらん)」と呼ばれていた熱中症のことが出てきます。江戸時代は気候学では「小氷期」にあたり、全般的に気温の低い時代であったことが知られていますが、当時も夏を元気ですごすのはなかなか大変だったと思われます。今回は、江戸時代の夏の飲み物から現代にいたるまでの夏の飲み物について紹介します。

解説・監修 権代美重子(食文化研究家)

1.江戸時代の夏の飲み物

「冷や水」

江戸のまちに「冷やっこ~い 冷やっこ~い」の呼び声が聞こえ始めたら夏の到来です。
この呼び声は「冷や水売り」。棒手振りが朝早くに井戸で汲んだ冷たい水をたっぷり入れた桶や荷を担いで、まちの辻々で「冷や水」を売り歩きました。江戸は埋め立て地で水は神田上水や玉川上水などから水道管で供給されていましたが、配水管を流れてくる水なのでごみが混ざっていたり、夏は生ぬるくてとても飲料水には適しませんでした。「冷や水売り」は地中の岩を貫いた堀抜井戸から汲む天然の冷たい清水を商っていました。中に白玉を入れたちょっと甘い飲み物でした。
(右写真:「団十郎の冷や水売り」<『江戸浮世人形』 岩下深雪作>)
 

【冷や水売り「俳優見立夏商人」 (歌川国貞)】 

十二代目市村羽左衛門が冷や水売りを演じている見立絵です。
冷水売りは、ほとんどが裸足で、涼しさを感じるように小ざっぱりとした恰好をしていました。画中に「なまぬるい役者のきもをひやさせむ、うつ巻瀧の氷水売」とあります。いくら井戸から汲みたての冷たい水でも炎天下を売り歩くうちにはぬるくなってしまいます。わかっていて容認する江戸っ子の粋な洒落心が感じられる見立絵です。

一番人気「甘酒」

「冷や水」と並んで人気があったのが「甘酒」です。
今では冬の飲み物と思われている甘酒ですが、江戸時代には夏になると「甘酒売り」が登場しました。甘酒はもともと冬の飲み物でしたが、江戸時代後期には夏にも甘酒売りが登場するようになりました。それも熱い甘酒です。甘酒は、蒸した米等に糀を加えて半日~1日保温してつくります。その自然の甘味を楽しむだけでなく、甘酒にはブドウ糖・ビタミン類・アミノ酸類が多く含まれ、暑さで弱った体を元気にする効果がありました。化学的な栄養成分は知らなくとも江戸の人々は甘酒の効用を知っていました。甘酒は俳句の夏の季語です。
【「甘酒」の俳句】
『あま酒の 地獄もちかし 箱根山』 与謝蕪村(1716-1784)

これは、与謝蕪村が箱根・大涌谷を訪れたときに詠んだ句です。
江戸時代は街道が整備されましたが、中でも箱根街道の箱根山は「天下の剣」といわれるくらい険しい山道でした。普通一日に十里を歩く旅人も箱根越えでは八里がやっとだったとか。街道には甘酒茶屋が九軒、そのうち四軒は峠にありました。甘酒は滋養飲料、険しい山道をやっと登ってきた旅人には、ことさら美味しい甘酒でした。甘酒で一息ついて元気を養ってまた歩きだしました。噴煙が立ち込める地獄のような大涌谷も元気を出して越えていきました。


「一夜酒 隣の子迄 来たりけり」 小林一茶(1763-1828)
「一夜酒」とは『甘酒』のことです。
一夜で簡単にできる甘酒を作ったら、近所の子供たちも飲みにやってきました。甘酒はアルコールを含んでいない滋養飲料なので子供も飲めます。甘酒を飲んで元気になった子供たちはまた遊びに行きました。そんな可愛い光景が見えるような句です。
一茶は古典研究も熱心に取り組みましたが、日常生活の中の怒哀楽を詠むことを重視しました。そんな作風が感じられます。

 

「枇杷葉湯(びわようとう)」

夏は厳しい暑さだけでなく食中毒や蚊を媒介とする伝染病などもあり「夏を越える」ことは大変なことでした。
暑気払いに効くとされていたのが「枇杷葉湯(びわようとう)」です。枇杷の葉の裏の繊毛を取り除き、乾燥させて砕いた肉桂や甘茶などを混ぜて煎じた汁で、夏になると枇杷葉湯を売り歩く行商人の声が江戸のまちに響きました。夏風邪・食中毒の防止・下痢にも効果がありましたが、枇杷のわずかな香気が爽やかで喉の渇きを潤す夏の清涼飲料としても愛飲されました。枇杷葉湯も俳句の夏の季語です。

「麦湯」

夏と言えば「麦茶」、というのは江戸時代も同じでした。
「麦湯(麦茶)」は、大麦を殻つきのまま炒って煎じた飲み物です。初夏に収穫した新麦を炒った麦湯は特に美味で夏の飲料として好まれました。江戸市中には涼み用の腰掛けを並べた麦湯の屋台がたくさんありました。麦湯店では麦湯の他、桜湯、くず湯、あられ湯なども商っていました。家の中の暑苦しさを逃れて涼み用の腰掛けに座って夕涼みする客で夜おそくまで賑わいました。

【麦湯女】
麦湯店の人気は、「麦湯の女」と呼ばれていた給仕の少女にもあったようです。江戸の風俗を記した「江戸府内風俗往来」(1904)には、「紅粉を粧うたる少女湯を汲みて給仕す。浴衣の模様涼しく帯しどけなげに結び紅染の手襷程よく、世辞の調子愛嬌ありて人に媚けるも猥りに渡ることなきは名物なり」ほんのりお化粧をした浴衣姿の十四、十五歳くらいの少女が愛想よく笑顔で給仕してくれましたが、まだ大人になりきらない少女の媚びることない清純さが魅力でした。
 

2.近代の夏の飲料

「冷やし飴」

「冷やし飴」は米飴、上白糖、しょうがの絞り汁を釜焚きしてシロップ状にした蜜を、水で割った飲み物です。
冷やし飴の生まれた正確な時期ははっきりしませんが、幕末には熱い「飴湯」として関東における甘酒のように夏バテ防止の飲み物として大坂で親しまれていました。
明治時代に入って製氷技術が発展してからは、飴湯を冷ました「冷やし飴」が登場し、大正期から関西では夏の一般的な飲み物となりました。今は、関西では蒸し暑くなる頃になるとスーパーの棚にパック入りや瓶入りが並び自動販売機でも買えるおなじみの飲料です。

「ラムネ」

「ラムネ」は「玉詰びん」という特徴ある瓶に入れられた柑橘の香りのする甘酸っぱい炭酸飲料のことです。
明治初期に神戸の外国人居留地にイギリスからもたらされました。「ラムネ」という名は「レモネード」が転訛したもので、独特な瓶もこのとき同時に伝わりました。明治5年(1872)に日本人に初めて製造許可が下りました。明治から大正そして昭和にかけて、「ラムネ」は気軽に喉をうるおせる庶民の飲み物として広まりました。1950年代には当時の炭酸飲料の約半数を占めていたと言います。清涼な風味のほか、独特の形状をしたガラス瓶の清涼感もあいまって、夏の風物詩として日本人に長く親しまれています。缶飲料の登場や専用瓶製造元の減少で見かけることが少なくなったのはさみしく思われます。

「コーラ」

「コーラ」とは、コーラの種子エキスを含んだ炭酸飲料全般のことを言います。
1886年にアメリカの薬剤師が頭痛薬を作ろうとしている過程で開発し、薬として売り出しました。その後,清涼飲料水として売り出したのが成功しアメリカの国民的飲料にまでなりました。
第二次世界大戦時にアメリカ軍によって世界各地に紹介されました。日本には1912年には輸入されていましたが、その時は普及はしませんでしたが、「スカッとさわやか」の宣伝コピーが当たり1960年代に大流行します。今は健康に留意したダイエットコーラやクラフトコーラが登場し、コーラ飲料の新しい時代が始まっています。
 
【コーラの実】
飲料コーラの独特の風味のもとである「コーラ」は、 アフリカの熱帯雨林に植生するアオイ科の植物です。常緑樹で、約8-15メートルほどに育ちます。種子はコラ・ナッツと呼ばれ、栗の実くらいの大きさで約2.5%のコラチン(カフェインの一種)を含み、興奮剤として古くからアフリカで用いられていました。乾燥させた種子を粉にして水に溶かし、砂糖やミルクを加えて飲んでいました。属長や客人向けの飲み物でした。炭酸飲料コーラは、コーラ・ナッツのエキスを用いていたことからその名が付けられました。 
 

3.夏の風物詩

「金魚」

夏祭りの夜店で金魚すくいをして楽しんだことのある人も多いでしょう。水槽の中で泳ぐ金魚は、見た目にも涼しく夏の風物詩でもあります。
日本では16世紀はじめ、中国から大坂の堺に伝わったのが始まりで、江戸時代半ばまでは一部の富裕層だけの鑑賞用のものでした。当時金魚は1匹5両から7両、現代の価格にして50~70万円で取引されていました。金魚は大金で取引されることから下級武士の間で副職として養殖が行われるようになります。金魚の値が下がり庶民にも手が届くようになって、江戸時代中期から金魚の大ブームが起こります。ガラスの水槽が存在しなかったので人々は陶器の盆などに金魚を入れて鑑賞していました。そのため、金魚は上から見た時のおもしろさ、美しさを追求して改良が進められました。
現代でも、金魚の美しさを競う品評会では、上から見た金魚の泳ぐ姿を審査することが圧倒的に多いそうです。やがてガラス加工技術が進歩して風鈴作家が金魚用のガラス玉をつくるようになり、そこに金魚を泳がせて楽しむようになりました。自然を小さくして身近で楽しむ日本文化の一つでもあります。

「虫売り」

虫の音(ね)を愛でる文化は日本独自のものといわれます。
『万葉集』や『源氏物語』『堤中納言物語』にも虫の音を愛でるさまが描かれています。虫の音を愛でることは、かつては貴族の風流な遊びでしたが、江戸時代には虫の音を楽しむことが大流行しました。寛政の頃、鈴虫の音は「涼を呼ぶ」と評判になり高値で売れました。さらに鈴虫の卵の早期大量孵化に成功したことから「虫売り」を商いとする者が増えました。商っている虫は鈴虫のほか,松虫,轡虫、蛍などいろいろでした。「虫売り」は虫の音をよく聞いてもらうために呼び声はたてず、いつも路傍の同じ場所に屋台を据えて商いました。
虫篭にも工夫が凝らされるようになり、竹で編んだ鳥籠に似せたものや、扇形、船形などいろいろな虫篭が登場しました。「虫売り」は、旧暦5月28日の不動尊の縁日から7月のお盆の頃までの短い季節商いでした。これは、お盆には「放生会」(生類を放つ仏教儀礼)と言って飼っている虫を放つ風習があったからです。豊かな自然と四季に恵まれた日本では、虫の音や蛍のほのかな光に涼を感じ夏を愛しむ感性がはぐくまれてきました。