「くつろぎの友 お茶」
新緑のさわやかな季節になりました。お茶の美味しい季節でもあります。
4月下旬から5月初旬に摘み取られる一番茶は「新茶」と呼ばれます。まだ太陽の光をあまり浴びていないやわらかな新芽で、ほのかな甘みがあり優しい香りがします。
昔から、新茶を飲むと、病気にならずに長生きできるといわれます。
お茶は、いつも私たちのかたわらにあります。ちょっと仕事の一休みのとき、家族や友人と団欒のとき、美味しいお菓子があるとき、もちろん食事のときも、お弁当を広げるときもお茶と一緒です。お茶で心和み優しい気分になります。
「くつろぎの友 お茶」・・・お茶はいつ頃から日本人の生活になくてはならないものになったのでしょうか。
今回は、お茶の歴史をたどってみたいと思います。
解説・監修 権代美重子(食文化研究家)
お茶の伝来
お茶の効能に注目 栄西『喫茶養生記』
高山寺の茶園
「闘茶」「書院茶」の流行から「茶の湯」へ
右から 「都/鄙」(と/ひ) 「本/非」(ほん/ぴ)とある。
「都」は京都産の茶、「鄙」は地方産の茶、「本」は京都栂尾産の茶、「非」栂尾産以外の茶、のことと思われる。
いずれもお茶を飲み分けて、どのお茶かを当てる「闘茶」に使用されたと考えられる。 (参考:広島県立歴史博物館HP「収蔵資料の紹介:闘茶札」」
鎌倉時代後期には各地で茶樹の栽培が行われるようになりましたが、産地によって品質に差がありました。最高級とされたのは京都栂尾産のお茶で本茶、それ以外の産地のお茶は非茶として区別されました。闘茶は本茶と非茶を飲み分ける遊びとして始まりました。光厳天皇が正慶元年(1332)に廷臣達と「飲茶勝負」を行ったのが最初とされます。
お茶を政治利用した信長、秀吉
北野大茶湯
庶民とお茶 京の「売茶翁」と江戸の「水茶屋」
江戸には「水茶屋」という今の喫茶店のような手軽にお茶を楽しめる店がたくさんありました。寺社の境内や門前、人通りの多い往来で参詣者や通行人にお茶や休息場所を提供しました。やがてかわいい娘がお茶を出すようになります。「看板娘」として評判になり、若者たちが茶店に押しかけるようになりました。一番人気は谷中の「鍵屋」のお仙で、浮世絵に描かれたり芝居になったりしました。江戸の庶民のほとんどは長屋に住んでいたので家でお茶を飲むという習慣はまだ普及しませんでした。
売茶翁
水茶屋の看板娘「鍵屋お仙」
番茶
煎茶
江戸時代中期に宇治田原の茶農家永谷宗七郎(1681~1778)が、茶葉を蒸して焙炉上で揉みながら乾燥させる方法を15年かけて開発し、それまでの茶色のお茶から緑色の香り高い茶「煎茶」をつくることに成功します。元文3年(1738)宗七郎はこのお茶を江戸に売り込みに行き、茶商「山本屋」嘉兵衛(4代目)が江戸で販売し評判となります。
江戸後期の天保年間に6代目嘉兵衛が摘採前の一定期間茶園に覆いをかけ直射日光を遮る栽培法と茶葉を露のように丸く揉む方法でコクと旨味に優れたお茶を作り出し「玉露」と名付けて売り出します。手間をかけた玉露は高価な高級茶でしたが、大名や旗本のあいだで人気となります。
宗七郎は晩年出家して宗円と名のり、大正期に「煎茶の祖」として追叙勲されました。その後、宗円の子孫が「永谷園」を創業、「山本屋」は「山本山」と名を変えて、どちらも今も日本橋で商いを続けています。