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Exhibition
2024.6.30まで

「くつろぎの友 お茶」

新緑のさわやかな季節になりました。お茶の美味しい季節でもあります。
4月下旬から5月初旬に摘み取られる一番茶は「新茶」と呼ばれます。まだ太陽の光をあまり浴びていないやわらかな新芽で、ほのかな甘みがあり優しい香りがします。
昔から、新茶を飲むと、病気にならずに長生きできるといわれます。
お茶は、いつも私たちのかたわらにあります。ちょっと仕事の一休みのとき、家族や友人と団欒のとき、美味しいお菓子があるとき、もちろん食事のときも、お弁当を広げるときもお茶と一緒です。お茶で心和み優しい気分になります。
「くつろぎの友 お茶」・・・お茶はいつ頃から日本人の生活になくてはならないものになったのでしょうか。
今回は、お茶の歴史をたどってみたいと思います。

解説・監修 権代美重子(食文化研究家)

お茶の伝来

日本にお茶が伝わったのは平安時代。空海や最澄などの遣唐僧が中国からもたらしたといわれています。当時のお茶は団茶(餅茶)、茶葉を団子や餅のように固め、それを粉末にして湯の中に入れ、煎じて飲むというものでした。平安初期の『日本後記』(弘仁6年/815)に「嵯峨天皇に大僧都永忠が茶を煎じて奉った」とあり、これが、わが国における最初の喫茶に関する記述です。

お茶の効能に注目  栄西『喫茶養生記』

お茶は貴重なものでしたので、平安時代にはあまり普及しませんでした。注目されるようになったのは、十二世紀に禅僧栄西が宋から茶と茶の種子を持ち帰り、ともに「茶礼」も伝えてからのことでした。栄西は『喫茶養生記』を書いて茶の効能も説きました。あるとき、気分の優れない鎌倉将軍源実朝に茶を献上したところ、実朝の気分が一気に回復しました。実朝は大いに茶を気に入り、配下の武将たちにもすすめました。それが公家や武士の間に茶が広がるきっかけとなりました。そのときの実朝は二日酔いだったとか。

高山寺の茶園

京都栂尾の高山寺は日本ではじめて茶が栽培されたところとして知られています。栄西が宋から持ち帰った茶の種を明恵上人につたえ、ここに植えて育て、やがて宇治にも移植され各地に広まっていきます。栂尾産のお茶は高品質で「天下一の茶」として「本茶」といわれ毎年天皇に献上されました。それ以外の産地のお茶は「非茶」と呼ばれ、鎌倉時代の末期には「本茶」か「非茶」かを飲み比べて産地を当てて勝敗を競う「闘茶」が流行しました。

「闘茶」「書院茶」の流行から「茶の湯」へ

公家や武士たちの間では、茶の味を飲み分けて勝敗を競う「闘茶」や豪華な道具を競い合う「書院茶」など、茶は遊びの要素の強いものとして流行しました。この流行は十五世紀後半まで続きました。やがて、室町幕府八代将軍足利義政の茶の師匠である村田珠光が茶会での賭け事や飲食を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会のあり方を説きます。「わび茶」の始まりです。「わび茶」は武野紹鴎や千利休によって「茶の湯」へと大成されていきます。

右から 「都/鄙」(と/ひ) 「本/非」(ほん/ぴ)とある。
「都」は京都産の茶、「鄙」は地方産の茶、「本」は京都栂尾産の茶、「非」栂尾産以外の茶、のことと思われる。
いずれもお茶を飲み分けて、どのお茶かを当てる「闘茶」に使用されたと考えられる。 (参考:広島県立歴史博物館HP「収蔵資料の紹介:闘茶札」」 

鎌倉時代後期には各地で茶樹の栽培が行われるようになりましたが、産地によって品質に差がありました。最高級とされたのは京都栂尾産のお茶で本茶、それ以外の産地のお茶は非茶として区別されました。闘茶は本茶と非茶を飲み分ける遊びとして始まりました。光厳天皇が正慶元年(1332)に廷臣達と「飲茶勝負」を行ったのが最初とされます。

お茶を政治利用した信長、秀吉

戦国武将たちも「茶の湯」に強い関心を持っていました。お茶は戦いの間の憩いでもありましたが、政治的にも利用しました。織田信長(1534~82)は、「名物狩り」をおこない、多くの名物茶道具を収集しました。これらの名物茶道具で茶会を催し、茶会の参加者に自らの権力を誇示しました。特別な勲功のあった武将にのみ茶会を催すことを許可し、名物茶器を勲功の褒賞として与えました。信長の後、天下統一を果たした豊臣秀吉(1536~98)も「茶の湯」を政治利用しました。信長に仕えていた千利休を茶頭とし、関白就任の際、禁中茶会を開いたり、黄金の茶室を造らせたりして天下人の権威を示しました。一方、秀吉が開いた北野大茶会は貴賤の別を問わない大茶会で大衆へも茶の湯を広めることになりました。

北野大茶湯

天正15年(1587)十月一日、秀吉は京都北野天満宮境内において大規模な茶会を催しました。七月末より畿内一円に高札を立てて身分上下の別なく数寄者の参加者を募り、総勢千人が集まりました。秀吉は殿に黄金の茶室を持ち込んで名物器を陳列し、庭では野点が行われ秀吉自身も茶頭とし拝て茶を振舞いました。大変盛大な茶会でしたが十日間の予定が一日で終わってしまいました。

庶民とお茶 京の「売茶翁」と江戸の「水茶屋」

やがて、庶民もお茶を楽しむようになっていきます。江戸時代半ばに、京都で煎茶を売り歩く風変わりな黄檗宗の僧が登場します。生活に足るだけのお金を得ればよいとして、ただ飲みも勝手という売り方で「売茶翁(ばいさおう)」と呼ばれました。
江戸には「水茶屋」という今の喫茶店のような手軽にお茶を楽しめる店がたくさんありました。寺社の境内や門前、人通りの多い往来で参詣者や通行人にお茶や休息場所を提供しました。やがてかわいい娘がお茶を出すようになります。「看板娘」として評判になり、若者たちが茶店に押しかけるようになりました。一番人気は谷中の「鍵屋」のお仙で、浮世絵に描かれたり芝居になったりしました。江戸の庶民のほとんどは長屋に住んでいたので家でお茶を飲むという習慣はまだ普及しませんでした。

売茶翁

肥前出身の黄檗僧、名は月海(1675~1763)。茶道具を吊るした天秤棒を担ぎ、東へ西へと風光明媚な場所へ神出鬼没に訪れては茶を売り歩きました。「茶銭は黄金百鎰(いつ)より半文銭までくれしだい。 ただにて飲むも勝手なり。ただよりほかはまけ申さず」と禅道と世俗の融解した話を客にしながら煎茶を振舞いました。形式にこだわらず茶を楽しむ姿に伊藤若冲、池大雅や与謝蕪村などの文人たちから慕われました。

水茶屋の看板娘「鍵屋お仙」

お仙(1751~1827)は江戸谷中の笠森稲荷門前の水茶屋「鍵屋」で働いていた娘です。十三歳頃から家業の水茶屋を手伝っていましたが、その素朴で可憐な姿が評判になり、浮世絵師鈴木春信が描き、大田南畝は読本に取り上げました。大変な人気でお仙見たさに若者たちが列をなし、笠森稲荷の参拝客が増えたほどです。「鍵屋」は、お仙を描いた美人画・手ぬぐい・絵草紙・すごろくといった所謂「お仙グッズ」も販売しました。お仙を題材にした芝居まででき、まるで今のアイドルのようでした。

番茶

江戸時代、庶民に飲まれていたのは抹茶ではなく簡単に茶葉を煮だした番茶でした。茶樹は、常緑樹で根が丈夫で引き抜きにくいことから畑や屋敷の垣根にふさわしいと多くの地域で植えられており、祭礼の際に植樹する風習がある地域もありました。そういった茶葉を利用して自家製の番茶が全国で作られていました。番茶は規格外の茶葉や自家製の茶葉を使ったいわば普段使いのお茶、日本茶の主流から外れた「番外茶」です。さっぱりとしたやや渋みを含む飲み口です。茶葉を乾煎りし香ばしい風味を出した「ほうじ茶」として飲まれることもあります。 江戸時代の中期までは、一般に出回る茶のほとんどは番茶であったといわれており、煎茶が出回るようになったのはそれ以降の時代になります。

煎茶

江戸時代中期に宇治田原の茶農家永谷宗七郎(1681~1778)が、茶葉を蒸して焙炉上で揉みながら乾燥させる方法を15年かけて開発し、それまでの茶色のお茶から緑色の香り高い茶「煎茶」をつくることに成功します。元文3年(1738)宗七郎はこのお茶を江戸に売り込みに行き、茶商「山本屋」嘉兵衛(4代目)が江戸で販売し評判となります。

江戸後期の天保年間に6代目嘉兵衛が摘採前の一定期間茶園に覆いをかけ直射日光を遮る栽培法と茶葉を露のように丸く揉む方法でコクと旨味に優れたお茶を作り出し「玉露」と名付けて売り出します。手間をかけた玉露は高価な高級茶でしたが、大名や旗本のあいだで人気となります。

宗七郎は晩年出家して宗円と名のり、大正期に「煎茶の祖」として追叙勲されました。その後、宗円の子孫が「永谷園」を創業、「山本屋」は「山本山」と名を変えて、どちらも今も日本橋で商いを続けています。

明治期の主要輸出品のお茶

安政5年(1858)、江戸幕府はアメリカと日米修好通商条約を結び、翌年の1859年、長崎・横浜・函館の開港を機に茶は生糸とならぶ重要な輸出品となりました。明治維新後も、茶の輸出量は政府の援助によりアメリカを中心に増加し、輸出総額の15~20%を占めるほどになります。明治後期には茶の輸出量は茶の生産量の6割にもなります。花形輸出品として発展してきた日本茶ですが、インド、セイロンなどの紅茶の台頭で輸出は次第に停滞していきました。大正期には全盛期の四分の一以下にまで減ってしまいました。代わりに国内消費が増え、お茶は国内向け嗜好飲料に変わっていきます。お茶が日本人の生活に根付いたのは、大正末期から昭和初期と言われます。
輸出されたお茶は、海外でコーヒーや紅茶と同じようにミルクや砂糖を混ぜて飲んでおり、何も加えずに緑茶本来の味や香りを楽しむ日本の飲用法とは、異なるものだったようです。明治39年(1906)、岡倉天心の「茶の本(The Book of Tea)」がニューヨークで出版され、茶を通して日本人の美意識や文化観を世界に知らしめました。

お茶の飲料化

1970年代、自動販売機の誕生・普及によって飲料の多様化が進んでいきます。伊藤園は「緑茶をいつでもどこでも自然のままのおいしさで多くの人たちに味わってもらいたい」、と緑茶の飲料化を目指し研究開発を始めます。1980年に「缶入り烏龍茶」、1985年に「缶入り緑茶」を発売しました。世界初の「缶入り飲料」です。1990年に「ペットボトル入り緑茶」を売り出し、蓋をすることができるという利便性から大当たりします。さらに2000年には温めることができるペットボトルを開発し発売しました。緑茶は時間がたつと茶の主成分カテキンが酸化して褐変し本来の香味を失ってしまいます。酸化を抑えて自然のままの味わいで製品化することに成功したのも伊藤園です。こうしてお茶は、いつでもどこでも手軽に飲めるようになりました。