展示内容

Exhibition
2023.7.1〜8.31

夏の楽しみ〜花火・納涼・鰻

夏到来!春夏秋冬と四季に恵まれた日本では、季節それぞれの楽しみがあります。とは言え、夏の暑さにはやや閉口ですが、扇風機もエアコンもない時代にも人々は楽しみを見つけてきました。

江戸時代、江戸っ子たちが待ちわびたのが「両国の川開き」。旧暦の5月28日から8月28日までの3ヶ月は幕府公認の納涼期間。連日花火が打ち上げられ、隅田川には多くの納涼舟(すずみぶね)が行きかい、たいそうな賑わいでした。花火は享保18年(1733)に、前年の飢饉とコレラの流行で亡くなった多くの人々の供養のために始まりました。以降、夏の恒例行事となり、江戸っ子たちの大きな楽しみとなりました。花火の打ち上がる日は多くの見物人が押し寄せました。川端には多くの夜店や屋台が出て、川には納涼船とその客目当ての物売り舟がひしめきました。夕方になると川風の吹く川辺へ縁台を出して団扇を片手に涼を楽しむ人たちもいました。

夏には「土用の丑の日」に鰻を食べる風習がありますが、鰻は万葉の時代から夏バテ防止の滋養のある食べ物として知られていました。江戸時代には「かば焼き」という料理法が生まれ、鰻は広く庶民に親しまれるようになりました。

監修・解説 権代美重子

花火と納涼

納涼期間中、花火の打ち上げられる日は、隅田川にかかる両国橋や東西の両国広小路は見物客でいっぱいでした。江戸時代の花火は、黒色火薬を使用しており、今日のものと比べると色彩も地味なものでした。しかし、火薬の量を調節したり、さまざまな仕掛けを工夫して、見る人を魅了しました。両岸に軒を並べる船宿や料理茶屋が大川(隅田川吾妻橋から下流)に納涼舟を出し、川岸は夜店や屋台でびっしりでした。

江戸時代後期になると、川開きの日だけでなく夜ごと花火が打ち上げられるようになります。花火舟は「花火一発一両」といわれるほどお金のかかるものでしたが、大店の旦那たちは競って花火を打ち上げました。大川沿いに屋敷を持つ諸大名も打ち上げるようになり、特に徳川御三家の花火は、その豪華さで大人気でした。町人花火は横に広がる「仕掛け花火」、武家花火は空で弧を描く「のろし花火」が主でした。

夕方、夕顔の花が咲く軒下で、襦袢の男と腰巻をした女がこどもと一緒に夕涼みをしています。この絵は木下長嘯子の和歌「夕顔のさける軒端の下涼み男はててれ女はふたの物」から着想を得たと言われていますが、夕食後家族でゆっくりと涼風をたのしみながらくつろぐ姿が描かれています。 
 

納涼舟は「一舟一晩六十五両」ほどもする贅沢な遊びでしたので、一般庶民は夕方になると川岸に縁台を出し、団扇片手に川風に吹かれながら涼を楽しみました。 
 

うろうろ舟

屋形舟や屋根舟の乗船客に「うろうろぉ~」といいながら、西瓜や瓜など飲食物を売り回っていたので「売ろ舟」、屋形舟の周りをうろうろしていたので「うろうろ舟」とも呼びました。餅売、酒売、まんじゅう売、でんがく煮売、さかな売、冷水、冷麦、ひやし瓜、西瓜、そば切りなどさまざまなものを商っていました。蒲焼やお吸い物などはその場で料理して熱々を提供してくれました。

万葉集に登場する「鰻」

鰻は古くから滋養ある食べ物として知られていました、奈良時代末期に編纂された万葉集に大伴家持と石麻呂の楽しい掛け合いの歌が載っています。家持がもともと痩せている石麻呂に「夏痩せしないように栄養のある鰻を食べなさいよ」と言っているのに対し石麻呂は、「いくら痩せてても生きてりゃいいんだよ。そういうおまえさんこそ鰻を獲りに行って川に流されるんじゃないよ」と応えています。「嗤笑歌(ししょうか)」とありますから、冗談交じりに交わした歌です。石麻呂は吉田老(よしだのおゆ)と言われ家持より年上でしたが、こんな歌を交わし合う二人はとても仲が良かったのでしょう。

鰻の蒲焼き

鰻の蒲焼きは江戸初期から一般にも食べられるようになりましたが、そのころは辻売りの露店で、売値は蕎麦と同じ16文でした。江戸は湿地を開いてつくられた街でしたので浅草川や深川で鰻がとれました。ここでとれる鰻を「江戸前」、他所でとれる鰻を「旅鰻」と言いました。江戸前鰻と旅鰻では値段に大きな差がありました。江戸前鰻が蒲焼一皿200文に対して、辻売りの旅うなぎは12~16文でした。江戸の鰻の蒲焼は,背開きにして一旦蒸して脂を落としてから焼いているのが特徴です。

「土用の丑の日」と鰻

土用の丑の日に鰻を食べるようになったのは江戸時代後期からです。商売不振の鰻屋から依頼されて平賀源内が店に「今日 うしの日」と書いて張るようにとアドバイスしたのが始まり、との説がありますが、そうしたことを書いた資料はありません。「今日 うしの日」の貼り紙が描かれた絵もこれ1枚で、他にはありません。平賀源内説は後年(大正期)になってからの商売用の作り話のようです。しかし、夏の土用の丑の頃は厳しい暑さが続いて体力も落ちている時期ですので、この日に鰻を食べることは理にかなっています。

うなぎめし

「うなぎめし」、今の鰻丼の登場は文化年間(1804~18)のころです。江戸の芝居小屋の金主(きんしゅ/出資者で小屋主に次ぐ権力者)であった大久保今助が、大好物の蒲焼を出前してもらう際に、すぐに冷えてしまわないようにと丼に入れて飯の間に鰻を挟むようにして保温したことが始まりと言われています。タレが飯に浸み込んで今までとは違うおいしさでした。今助は出入りの鰻屋「大野屋」に芝居客用の「うなぎめし」をつくらせ、芝居小屋で売り出します。温かいまま片手で持てる丼で、手軽に食べられることが受けて、「うなぎめし」は大好評でした。やがて江戸中に広まっていきます。


TV番組「開運!何でも鑑定団」に当ギャラリーの弁当箱を出品。

令和5年5月16日放映のTV番組「開運!なんでも鑑定団~花のお江戸のお宝鑑定大会」に弁当ギャラリー所蔵の「提げ重」を出品しました。今回は番組で紹介された提げ重や燗銅壺と道中弁当を特別に展示いたします。

瓶子酒器付きの提げ重

江戸中期から、花見は江戸の人々にとって年中行事とも呼べる楽しみな行楽となりました。この弁当箱は主に花見時に携行されたものです。数人分のご馳走を入れる重箱と取り皿、酒器がまとめて収納できるようになっています。提げ手がついているので携行するのに便利でした。外箱の底に、安永2年(1773)の裏書があり、今から約250年前に作られたことがわかります。

★鑑定の評価ポイント
金具や釘をいっさい使用せず、板と板を合わせて作られている(腕の良い指物師の作品と思われる)。
重箱の外側の杢目(モクメ)は、ケヤキの根の部分を用いた玉杢(たまもく)模様をうまく利用している。四角いお盆は如鱗杢(じょりんもく)といい、玉杢の中でも特に上等ものが使われている。現代でも非常に高級な木材。

鑑定士 勝見充男

燗銅壺

「燗銅壺」は野外でも酒を燗して楽しめるように作られました。中に仕切りのついた内側が金属でできた箱で、片側で炭火を熾し、もう一方に水を入れて炭火の熱で温め、中に酒を入れた徳利を入れて燗しました。金属は熱伝導率の良い銅が使われています。これは下に炭や弁当を入れる箱がついています。上部に穴があいており、そこに棒を差し込んで担いで携行しました。底に慶安2年(1649)の裏書があります。

道中弁当(ぶりぶり)

江戸時代中期には五街道が整備され、人の往来が盛んになりました。道中弁当は往来頻度の高い商人などが携行した弁当箱です。金属製の三段の弁当箱を網代編の竹で覆っており、保温と身体にあたるときのやさしさを考慮しています。真ん中が膨らんだ特別な形は子供の玩具「ぶりぶり※」を模しています。
※「ぶりぶり」は江戸時代には子供の無事な成長を祈る魔除けとして飾られるようになりました。この形には、道中の無事を祈る気持ちが込められています。