展示内容

Exhibition
2023.1.4~2.28

お正月の楽しみ

あけましておめでとうございます。

新しい年のはじまりは、いつも清々しく、一年の安寧と多幸を祈り厳かな気持ちになります。2023年が皆さまにとりまして、健康で幸せな一年でありますようにお祈り申し上げます。そして、平和で穏やかな年でありますようにと、心より祈念いたします。

皆さまはお正月をいかがお過ごしになられましたでしょうか。時代とともにお正月の風景や過ごし方も変わってきました。お正月が誰にとっても最大のハレの日だった江戸時代、人々はどのようにお正月を迎え楽しんだのでしょう。今は、お取り寄せも盛んとなったお正月料理の「おせち」や当時の風物の様子をご紹介いたします。

二月三日は節分です。「鬼は外!福は内!」かつて節分の夜はそんな元気な声と豆をまく音が町に響いたものでした。節分の翌日は立春、寒さの中にも明るい春が一歩一歩近づいてきています。

袖ひぢて むすびし水の こほれるを 春立つ今日の 風やとくらむ(紀貫之)(夏には袖を濡らして汲んだ水も冬には凍っていたけれど立春の風が溶かしてくれている) 

監修・解説:権代美重子(食文化研究家)

江戸時代のお正月風物

獅子舞

獅子舞は一人または二人以上で一匹の獅子を演じる伎楽芸で、16世紀初めに伊勢で飢饉や悪霊を追い払うために正月に舞ったのが始まりとされます。大神楽師の団体が獅子舞をしながら悪魔払いに全国を回ったことから広まりました。舞いながら、獅子が人の頭をカブリと噛みます。頭を噛むことで、その人についた邪気を食べてくれるのです。怖がって泣く子もいましたが、子供には特に御利益が大きいそうです。「噛みつく」には「神憑く(かみつく)」という意味も重ねています。獅子舞は、舞いに曲芸や道化の要素を加えた物語性のあるもので笛や太鼓とともに賑やかに正月気分を盛り上げてくれました。

万歳と鳥追

万歳(まんざい)は新春に家々を訪れ祝言を述べる太夫と才歳の二人一組の祝福芸です。才蔵の鼓で太夫が面白可笑しく舞い唄います。江戸では、万歳と言えば三河万歳。三河万歳は、三河が徳川氏の出身地ということで格別の保護を受け、苗字帯刀御免と風折烏帽子に大紋という格式のある装束の着用を認められていました。江戸城や大名屋敷で芸を披露することもあり、特に正月には必ず江戸城に参仕して、万歳師が門外より「鍵いらず戸ざさる御代の明けの春」と唱え、門内より「思わず腰をのばす海老錠」と答えて、めでたく城門を開くのが吉例となっていました。

*京では万歳と言えば大和万歳でした。

「鳥追(とりおい)」は、三味線を弾き目出度い唄をうたいながら門付けに歩く女太夫です。通常は菅笠に木綿の着物ですがお正月だけ編笠をかぶり新調の着物に日和下駄でやってきて、この期間だけ「鳥追」と呼ばれました。一般に、紙に12文包んで渡すのが決まりでした。

蓬莱(ほうらい)とおせち

お正月の楽しみの一つに「おせち」があります。重箱に詰め合わされた料理を縁起を思い浮かべながら味わうと、「良い一年でありますように」という思いが新たになります。「おせち」が庶民の間でも作られるようになったのは江戸時代中期からです。床の間に飾る「蓬莱」と食べるための祝肴を詰めた重箱がありました。蓬莱は招福の縁起物で、三方の台の中央に松竹梅を立て、その周りに熨斗鮑や干柿、伊勢海老などを飾りました。江戸では、蓬莱は「喰積(くいつみ)」とも呼ばれ、軽くつまめる程度の乾物や果物を盛り、家族も食べ年賀客にもふるまいました。蓬莱の飾り物をちょっと食べると寿命が延びると言われていました。

祝料理の定番

重箱に詰められた祝料理の定番は「数の子」「田作」「たたき牛蒡」「煮豆」でした。全国的に、この四品を基本にあとは郷土料理などが詰めあわされていました。「おせち」には、ご馳走というイメージがありますが、江戸時代には「おせち」の食材は手に入りやすく安価なものばかりでした。一般に「おせち」を重箱に詰めるようになったのは明治時代以降のことで、「正月料理」のイメージが確立したのは太平洋戦争後です。デパートや雑誌が見栄えの良い美しい写真を載せ宣伝したことによります。古くからの伝統と思われていますが、「おせち」の歴史は意外と新しく、メディアの影響を大きく受けています。

鏡開き

1月11日は「鏡開き」、お供えしていた鏡餅を下げ、木槌や手で割って食べます。木槌や手を使うのは、刃物で切るのは切腹を連想させ、また神様の鎮座される場だった鏡餅に刃物を入れてはいけないからという理由からです。鏡餅ですから「割る」というのは縁起が悪いので、運を開くという意味で「鏡開き」と言います。鏡開きによって歳神様をお送りしお正月が終わります。開いた鏡餅は。お雑煮やお汁粉、かきもちにして余さずいただきます。神の霊力をわけていただく「直会」です。

どんど焼き

正月事始めから門松を立てている期間を「松の内」と言います。門松は神様をお迎えするための依り代(目印)となるものです。「松の内」の期間は地域によって違いますが、関東では1月7日まで、関西では1月15日までとされています。「松の内」の最後の日に門松と注連飾りを外します。外した後は地域の神社の「どんど焼き」や「お焚き上げ」で燃やします。この煙に乗って神様がお帰りになるので火を燃やすときに「尊と(とうと)尊と(とうと)」とはやし立てたからとか、火がどんどん勢いよく燃える様子から、「どんど焼き」と呼ぶようになったと言われます。残り火で餅や団子を焼いて食べると一年間無病息災・健康で過ごせるそうです。

節分と豆撒き

毎年2月3日は節分です。節分とは「季節を分ける」ことを意味し、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指します。江戸時代以降は特に立春の前日を指すようになりました。季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると信じられており、それを追い払うための鬼払いの風習「豆撒き」が生まれました、平安時代に中国から伝わった「追儺(ついな)」(鬼払い)の風習が宮中から庶民にも広がったものです。炒った大豆を鬼に投げつけて鬼の目をつぶして鬼を追い払い、新な年の吉福を祈りました。

豆は、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という信仰や語呂合わせで「魔滅」に通じます。撒いた豆を自分の年齢(数え年)の数あるいは歳の数より一つ多く食べると、体が丈夫になり風邪をひかないと言われます。炒り豆を使用するのは、旧年の厄災を負って捨てられるものなので撒いた豆から芽が出ては不都合だからだそうです。豆撒きのとき、豆の容器に桝が使われるのは、「ます」という読みが「増す」や「益す」に通じ、木を組んでできていることから木(気)を合わせるという意味もあり、縁起物として使われています。節分の夜は、家々で「鬼は外、福は内」と大きな声で叫びながら豆撒きをし、出て行った鬼が戻ってこないように急いで戸や窓を閉めました。

柊鰯と恵方巻

節分の日には、イワシの頭を柊(ひいらぎ)に刺して玄関に飾るという習慣があります。鬼はイワシの匂いが嫌いとされ、鬼の目を刺す棘のある柊を合わせて鬼を追い払おうとするものです。

節分の夜に、恵方に向かって願い事を思い浮かべながら太巻寿司を1本そのまま丸かじり(丸かぶり)し、言葉を発せずに最後まで食べきると願い事がかなう、と言われます。「恵方巻」として近年盛んになってきましたが、商売繁盛を願う大阪商人の風習から2000年代に広がった新しい風習です。