展示内容

Exhibition
2022.11.1~12.28

お弁当箱の用と美

お弁当は、もともとは家を離れて仕事に行くときの携行食でした。里での農耕、海での漁撈、山での伐採や狩猟、仕事は違ってもお弁当は働く力のもとでした。お弁当箱は、竹、柳、杉、檜など地域に育つ自然素材を用いて、普段使いに耐えるよう丁寧に堅牢に作られました。美しく見せようとする作為はないのに、用に即した簡素な美しさを備えています。素材の持つ特徴を生かすことがおいしく食べる配慮となっています。お弁当の場面は働く場だけでなく、寄り合いや馬での遠出のときなどさまざまです。それぞれの場面に合ったお弁当箱があり、用に適した工夫がされています。お弁当箱は日常の実用のものですが、そこに人々の知恵と生活文化の質の高さを感じることができます。

秋は収穫の季節、毎年11月23日全国の神社で新嘗祭が行われます。その年収穫した新穀を感謝を込めて神に供えます。年の瀬を迎えると、歳神様を迎えるための準備が始まります。歳神様は穀物神、稲作・米は日本人の生活・文化に大きくかかわってきました。

監修・解説:権代美重子(食文化研究家)

仕事に携行した弁当箱

竹や柳を丁寧に編み込んだものや木をくりぬいたものなど手仕事の技が見事です。そして、抗菌性・通気性・保湿性などそれぞれの素材の持つ特性を生かす知恵に感心します。古くから食品包みの定番であった竹皮は、竹が成長するときに自然に剥がれ落ちるもので手に入れやすく、包むものの量や大きさにも自在に対応し端を割いて結び紐になり、何度でも使え、捨てても土に還ります。環境重視の今、改めて見直されています。「曲げわっぱ」、檜や杉などの材を薄く加工し曲げて作りますが、軽くて丈夫なうえに木肌が余分な水分を吸収し冷めてもふっくらとおいしいのが特徴です。角のない丸い形はご飯をすくいやすく、心地よい木の香りがご飯のおいしさをより引き立てます。蓋と身が同じ深さのものは二食分携行できました。また蓋に焼石を入れて煮炊きをすることもできました。地域によって「めんつう」「めんぱ」など呼び名は異なりますが、日本各地で作られています。

わっぱ弁当

用に即した弁当箱

腰弁当

腰のカーブに沿うように弓型に作られた曲げ物弁当箱。馬での外出の時にしっかり腰に縛り付けて携行しました。「野駆け弁当箱」とも呼ばれ、どんなに馬が駆けても落ちる事はありませんでした。同様の形の腰酒筒ありました。熱燗を入れて腰に巻くと湯たんぽ代わりになったそうです。

入れ子型弁当

同様の形状の大きさの異なる容器を重ねて収納できるようにした弁当箱。多食分の弁当や飯と菜を分けて携行でき、食べ終わるとコンパクトに一つに収納できるという機能的な弁当箱です。

信玄弁当

三段重ねの弁当箱で下が飯碗、中が菜皿、蓋が汁椀になります。中段の菜皿の蓋が酒杯になるものもあります。武田信玄が好んで携行したとも言われていますが、戸外で食べる弁当ながらきちんと感のある食事ができ、シンプルで美しい形をしています。

新嘗祭(11月23日)

新嘗祭は、天皇がその年の新穀などを天神地祇に供えて感謝の奉告を行い、自らも食する宮中祭祀です。天孫ニニギノミコトが天照大御神より高天原の斎庭の稲穂を賜って瑞穂国を作ったことが由縁とされ、『日本書記』にも記載のある7世紀から続く宮中祭祀の中で最も重要なものです。農耕が生活の中心であった時代、豊作を祈ることは国家の安泰・国民の繁栄を祈ることでした。全国の神社でも行われるようになったのは平安時代からです。明治時代から祝日でしたが、昭和23年に「勤労感謝の日」として国の祝日に定められました。かつては新嘗祭まで新米を口にしない風習がありました。

プレナス米育活動と米づくり事業

このギャラリーのあるプレナス東京本社ビルの屋上には小さな田んぼがあり、子供たちとの米づくりを通じて米食文化の大切さを学ぶ「あおぞら田んぼプロジェクト」を2020年から展開しています。2021年には埼玉県加須市に「プレナス加須ファーム」を開設、自分たちで米づくりを行う農業事業も始めました。2022年には山形県庄内地方に新たな拠点「プレナス庄内三川ファーム」を開設しています。

煤払い(大掃除)

江戸時代の江戸では、12月13日がお正月を迎えるための「煤払い(大掃除)」の日でした。将軍家では1640年から「将軍家御営中御払い」として江戸城の煤払いをしていましたが、それにならって諸侯・旗本・御家人・町家も煤払いをするようになりました。今と違って、竈に薪をくべて煮炊きをし、囲炉裏で暖を取り、油や蝋燭の灯の生活でしたので、一年では随分煤がたまりました。皆総出で、煤払いや畳干しなどの大掃除に取り組みましたが、新年を迎えるに当たっての一種の厄払い・お清めの儀式でもありました。終わった後には、食事や酒が振る舞われ、胴上げをしたりもしました。煤払いには鯨汁が付き物と多くの記録にあり町家では蕎麦の振舞いもありました。煤払いは「正月事始め」とも呼ばれ、終わると翌日から注連飾り(しめかざり)や正月用品を売る歳の市が始まりました。

「千代田之大奥 御煤掃」江戸城大奥では12月13日以前から各所の掃除が始められ、13日に正室の御在所が掃除されて、それで総仕上げとなりました。掃除が終わると「納の祝い」という宴となり、ご馳走と酒が振る舞われました。奥女中たちが「めでためでたの若松様よ〜」と歌いながら仲間を胴上げする、という習慣がありました。 国立国会図書館蔵

大奥や武家では、この日畳替えもおこないました。積み上げられた畳が見えます。「ちょっと休憩」とばかりお茶を入れる女中の姿、つかまって胴上げされそうになっている若い武士の姿も描かれています。

大店の煤払いはとても賑やかなもので、店員や商家に出入りしている鳶職人などが総出で大掃除しました。「十三日白い野郎は叱られる」という川柳もあり、終わると銭湯で煤落としし、店主からご祝儀酒や鯨汁などが振る舞われました。ちょっとしたお祭りのようでした。

大奥では煤払いのあとに「煤払い蕎麦」を食べるのが行事化しており、それが武家や庶民にも広まり、煤払い時の定番となりました。ご近所や知人にも「煤見舞い」と称して蕎麦を贈りあいました。

煤払いが終わると胴上げをするという風習もありました。これは、大奥から庶民に広まったといわれています。誰彼構わず標的にされましたが「十二日から色男狙われる」という川柳もあり特に色男が標的とされたようです。煤払い時の楽しい余興でもあったのでしょう。

捕鯨は江戸時代に盛んとなり、江戸時代中期には庶民の食べ物となりました。江戸では「煤払い」の後に塩蔵した鯨の皮の入った鯨汁を食べることが庶民の慣習となっていたようです。「江戸中で五六匹喰ふ十三日」という川柳もあります。