展示内容

Exhibition
2021.4.27~6.30

春の行楽弁当

春夏秋冬の美しい自然に恵まれた日本では、 古来、人々はお弁当をもって山野に出かけ行楽を楽しんできました。 中でも花見は特別のものでした。 花見が貴族や大名から庶民にも一般化したのは江戸時代中期のことです。 桜が咲きはじめると人々は連れ立って花見に出かけ樹下に宴を設け無礼講で楽しみました。花見の前夜は「花の宵」といい、家族総出でお弁当や晴れ着の支度をしましたみんなで囲むお弁当は腕によりをかけた御馳走でした。 お弁当箱にも凝りました。桜は一斉に咲き一斉に散ります。その妖しく儚い美しさも人々の心を酔わせました。

監修・解説:権代美重子(食文化研究家)

「ほかい」とは「ほかう」(祝う)の名詞形で、元来は神への神饌を盛る器であったが、次第に野遊びなどの折に食物を持ち運ぶのに用いられるようになる。平安時代からすでに用いられていたが、近世は民間で出産や還暦の祝いに赤飯や饅頭を行器に詰めて贈る風習が定着する。黒漆で家紋を付けたものも多く家格をあらわすものでもあった。展示の行器はかなり簡素化されているので江戸時代後期くらいの民間用のものと思われる。

花見ではお弁当とともに酒も重要な宴の盛り上げ役であった。瓢(ひさご)や瓶子(へいし)、盃などの酒器を併納した「堤重」が作られた。「堤重」とは携帯しやすいように提げ手を付けた重箱のことである。酒肴(酒のつまみ)を入れたと思われる小型堤重も作られた。「六角小型堤重」は開くと菱形の小さな重箱と取皿が組み合わされている。朱塗りに蒔絵で模様を施した小型堤重も美しい。花見の宴を華やがせたことだろう。これらはかなり趣味性が高く、富裕な町人が用いたもので、時代は17世紀後半から18世紀にかけてと思われる。

江戸時代中期から花見は庶民にとっても年中行事ともいえる楽しみとなったが、燗銅壺が考案さ普及したのは江戸時代後期と思われる。花見は幕府公認の無礼講の宴であった。そこで工夫されたのが、酒を燗する「燗銅壺」である、片方に炭火を熾す焜炉、隣の水を入れた容器に徳利やちろりを入れて伝導熱で酒を燗した。素材には熱伝導率の高い銅が使われている。焜炉の上に金網を載せるとスルメや生椎茸など酒のつまみを焼くこともできた。その場で程よい燗ができる燗銅壺は花見や行楽の酒好きの必携品であった。堤重には弁当や取り皿、盃なども収納されている。

花見は家族や仲間と連れ立って出かけた。これは多人数用の弁当と取り皿、箸が納められた堤重である。ビシッと見事に収納されている。宴で銘々に配られたのであろう。中の御馳走や人々の笑顔が目に浮かぶ。